御木茂則
映画カメラマン。日本映画撮影監督協会理事。神戸芸術工科大学 非常勤講師。撮影:『部屋/THE ROOM』『希望の国』(園子温監督)『火だるま槐多よ』(佐藤寿保監督) 照明:『滝を見にいく』(沖田修一監督)『彼女はひとり』(中川奈月監督) など。本連載を元に11本の映画を図解した「映画のタネとシカケ」は全国書店、ネット書店で好評発売中。
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下級武士の日常を丁寧に描いた画期的な作品
『たそがれ清兵衛』(山田洋次/02)は今までの日本の時代劇で描かれてこなかった、貧しい下級武士の日常生活を丁寧に描いた画期的な作品になります。これは将軍や藩主、家老など上の位の武士たちの日常生活の資料は残されていますが、下級武士の日常生活の資料はほとんどないためです。
スタッフたちは図書館、博物館などでの資料探し、識者や庄内藩の武士の子孫たち、時代劇映画経験者への取材、東北地方にわずかに残る幕末に建てられた家を調査するなどした後、想像力の限りを尽くして『清兵衛』の世界観を支える、清兵衛の家に始まる美術と装飾、衣装、ヘアメイクなどを生み出しています。
清兵衛(真田広之)の家は、室内は京都の撮影所、外観は長野県にオープンセットで作られて、シチュエーションに応じて使い分けています。オープンセットの茅葺き屋根は、山梨県の旧家で使われていた茅を取り寄せて、専門の職人に作ってもらって、長年人が住んでいる風合いを出しています。庭にある柿や梅などの木は、調査で下級武士の家では家計の足しに、実のなる木を育てていたことが分かったので植えられています。
ある晩、清兵衛は家老の堀将監(嵐 圭史)の家へ呼び出されて、反逆者となった余吾善右衛門(田中 泯)を討てという藩命が下されます。このシーン(74分11秒〜)での、酷い藩命に抗うことができない下級武士としての清兵衛の悲哀は、照明と美術と衣装からも感じ取ることができます。
清兵衛の薄暗い家に対して、家老の家は蝋燭が灯されて明るく、金箔の貼られた襖で囲まれて、家老は豪華な衣装を着ています。薄汚れた衣装を着る清兵衛を、一層みすぼらしく見せます。
レンズで見せる清兵衛の立場の弱さと家老の権力の大きさ
家老の家の居間にいる武士の中で、清兵衛が最も弱い立場であることは、カメラのレンズと高さの選択からも描かれます。
広角レンズが効果的に使われるのは、清兵衛たち向けの引き画で、清兵衛と上司の久坂長兵衛(小林稔侍)が待っているところへ家老たち3人が入ってきて座るショット(74分21秒〜)です。
広角レンズの遠近感を強調する効果により、カメラから一番近い位置に座る家老は大きく、カメラから離れている清兵衛は小さく映ります。この大きさの差を使うことで、武士として位が高いか低いかが描かれています。
この引き画のショットでは、他の人物は身体を起こして座っているのに対して、清兵衛は礼儀として頭を低く下げ続けています。清兵衛の頭の高さの位置がフレームの中で一番低くなることで、この場で一番低い身分であることが描かれます。
このシーンの終盤で藩命の受諾を渋る清兵衛に怒り出して立ち上がる家老向けの引き画のショット(79分28秒〜)では標準レンズが使われています。標準レンズの自然な遠近感により家老を小さく見せないことで、清兵衛向けのショットと印象が変わって、家老の持つ権力の大きさを描きます。
この家老向けのショットでは、怒って立ち上がった家老の高さに合わせて、カメラは家老の胸元ぐらいの高さに上がります。カメラは清兵衛をはっきりと上から見下ろすことで、清兵衛と家老の身分の差を明確に見せます。権力を持つ家老に従うしかない下級武士の清兵衛の悲哀が映像からも伝わります。
室内で刀で戦うリアルさを追求した殺陣
『たそがれ清兵衛』の終盤で清兵衛と余吾が、余吾の家の中で戦うシークエンス(102分47秒〜)は、室内で武士が刀で戦ったらどうなるか、山田監督、俳優、殺陣師、剣術指導が考え抜いた、リアルさを追求した殺陣です。太刀を大きく振りかざした余吾が、鴨居をチラリと見て、太刀が当たらないかを確認する、さりげない芝居からも見てとれます。
余吾を演じた田中 泯さんは、独自の舞踊の世界を築いてきた舞踊家(ぶようか)で、映画への出演は初めてでした。山田監督は舞踊で鍛えた身のこなしが、これまでにない殺陣の演技につながると期待して、出演を依頼しています。
余吾善右衛門の悲哀を見せる照明
余吾善右衛門は武士の誇りに拘ったことで、浪人時代にはひどい貧乏の末に妻子を失い、ようやく仕官した海坂藩では内紛で反逆者とされ、剣の腕を活かすことができない、悲劇的な役回りの男です。
余吾の悲哀は、清兵衛と余吾が土間に背中合わせで座って会話をする10分ほどのシークエンスの中で、仏間向けのふたりを横位置から映すショット(105分35秒〜)で特に強く感じられます。
雨戸がすべて閉じられた暗い部屋の中で、清兵衛には小窓からの光を当てて顔を明るくしています。余吾の顔には輪郭を強調する照明(バックライト)を背後から当てるだけで顔は暗くしています。清兵衛と余吾の明暗の差の大きさは、彼の悲哀を増します。
仏間向けの横位置から清兵衛と余吾を映すショットのあと、「切り返し」の三和土向けの引き画でふたりを映すショット(107分58秒〜)があります。切り返しとは映像業界用語で、前のショットと180度反対側の位置にカメラを置くことを言います。
三和土向けのショットは、余吾の顔の輪郭を強調する照明を、仏間向けのショットとは180度反対側の位置から当てています。このように切り返しをするとき、照明を違う位置に置くことはよくあります。
照明の位置を変えるのは、仏間向けのツーショットと同じ位置から照明を当てると、余吾の顔が明るくなり、このシーンの雰囲気が台無しになるためです。
清兵衛と余吾の戦いは、余吾が清兵衛の持つ刀が竹光で、小太刀のみで戦うのを知ったことで始まります。余吾は、清兵衛が小太刀の達人であることを知らないので、武士の誇りを傷つけられたと感じます。
ふたりの戦いでは物語の流れに寄り添いながら、照明の当て方が変化します。余吾の顔に当たる光は少しずつ強くなり、余吾の表情が見えることで、清兵衛に対して余吾の怒りを感じることができます。
ステディカムを使った清兵衛と余吾の戦い
この清兵衛と余吾の戦いをより効果的に見せるため、カメラは動くことが多くなり、映像に躍動感を与えています。このカメラの動きを効果的に見せるために、他のシーンではなるべくカメラを移動車に載せて動かさないようにしています。
撮影機材にはステディカムが使われています。オペレーターが着る特殊なサスペンション付きのジャケットに取り付けられたカメラは、手持ち撮影のように空間を自由に動きながら、手ブレを抑えたスムーズな撮影ができます。
清兵衛と余吾の戦いが始まって、最初にステディカムが使われるのは、三和土向けの広い引き画から始まり、清兵衛に押されて余吾が庭に尻餅を付くまでのショット(113分36秒〜)です。狭い室内でオペレーターが20kg以上あるステディカムを、清兵衛と余吾の周りを素早く動きながら180度近く回り込みつつ、的確なポジションとサイズに捉え続けるのは至難の技です。
映像で観ると、このステディカムのオペレートは難なく行われているように見えます。観客にカメラの存在を意識させない熟練の技術は、このステディカムのショットに限らず、映画のさまざまなシチュエーションで使われて、観客を映画の世界へと引き込みます。
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