プロフィール
脚本、監督、撮影、編集、音楽を一人でこなす映画作家。モナコ国際映画祭:最優秀撮影監督、脚本、音楽、アートフィルム賞。ロンドンフィルムメーカー国際映画祭:最優秀監督賞。アジア国際映画祭:最優秀監督賞。最新作『千年の糸姫/1000 Year Princess 』はアメリカSMGグループから世界配信中。
※この連載はビデオSALON 2018年6月号に掲載した内容を転載しています。
第3回
伝えたいテーマがあり、それをストーリーにするには
どうすればいいのだろうか?
世の中には動機やテーマのない、ただのドラマがたくさんある。それらに存在意義があるとすれば、ロケーションやその映像が特別美しかったり珍しかったり、または有名人が出演することでファンが喜んだり、いずれにしても作家や作品としての存在感は薄く、誰が作ろうが構わない。そしてエンターテイメントとしては意味のある物かもしれないが、「作家主義」としてはそれではいけない。やはり作品を通して作家の思いが伝わらなければ意味のないことなのだ。
随分前に本誌の企画で作った「無言歌」という短編作品がある。ストーリー自体は、国語教師と彼に思いを寄せる高校生の女の子が学校の帰り道に交わす会話という、いたってシンプルなものなのだが、そこには私が常々感じている強い思いが込められている。
▲ 『無言歌』(2011年・HDカラー・12min.)◉監督・撮影・音楽:ふるいちやすし ◉主演:藤沢玲花
視聴者から「ストーリー、セリフが分かっていても、『言わないでおこうか』と言う時の藤沢玲花の表情と声が、何度でも見たくなる」という嬉しいお言葉をいただく。この時、17歳になったばかりの女優、藤沢玲花に敬意を抱くとともに、映画作家冥利に尽きる。今ではお母さんになった彼女も、元気に女優を続けている。
人に対する思いというのは、まずそのまま在るだけでいいのではないか? それを言葉にすると、とたんに相手の思いとの整合性が求められ、それを継続させるための約束をさせられたりして、いつしかピュアさを失ってしまう。
ましてやそれが学校の先生と生徒の間の恋なんてことになれば、社会的に悪いこととされ、その思いを持つことさえ許されなくなる。愛だ恋だと形にしてしまうことより、それぞれの思いが純粋に存在していることの方が大切なのではないだろうか?
何ともスッキリしない、何の答にもならないようなテーマだが、私たちは学校の先生でもなければ政治家でもない。それに視聴率や観客動員数を義務付けられているわけでもない。例えばあなたがふと思うこと、それがどんなマイノリティーであっても、時に社会的に許されないことであったとしても、胸を張って堂々とテーマにしてそれを伝えるためのストーリーを考えてみてはどうだろう。文化というのはそういうものだ。
もちろん短編であり、有名とは言えないこの作品だが、お陰で沢山の反響があり、今でも感動のメッセージが届いたりする。テーマがしっかりある作品は決して色褪せるものではないのだと思う。
ではテーマからストーリーにするにはどうすればいいのだろう。私はこのテーマを純粋な女の子の口から言って欲しかった。おそらく誰もがそういったテーマとなる象徴的なシーンを最初に思いつくだろう。後はそこにたどり着く道筋を作ればいいわけだが、何も小説を書くようなことではない。映画には風景があり、音楽があり、役者の表情がある。すべてを言葉で表す必要はない。逆にすべてをセリフにして役者に喋らせてしまうと、押し付けがましい説明調になってしまうことが多い。
それを避けるためにも、文字だけで書き始めるのではなく、全体の人間関係や場面を図に示したストーリーボードのような物を書けば、なんとなくストーリー全体が立体的に見えてくると思う。その中で特に大切なのは登場人物の人間像、人格といったものを最初に確立させることだ。そうすればそれぞれの人物の行動や言動が、より自然な形で出てくるだろう。その性格によっては言葉に出さず、目で訴えるような事もあるかもしれない。
そういった映像作品ならではのストーリー展開が映画のシナリオに求められるものであり、小説とは根本的に違うところだ。そこを突き詰めるために、セリフのまったくない作品を作ってみるのもいいだろう。同じ人物や物、風景なども、光の当て方や構図の取り方などで訴えるものが全く違ったものになる。
もちろん言葉ほど断定的な表現にはならないが、それもまた、映像作品ならではのメッセージの伝え方であり、それを身につけることによってシナリオの書き方も撮影の仕方も変わってくるのだ。
今後、いよいよ撮影のノウハウにも触れていくわけだが、撮影以前の動機、テーマ、そしてシナリオが柱としてしっかりしてなければ、どんなにいい機材を使って、綺麗な画を撮ったとしても、それはいい映画にはなり得ないということを肝に銘じてほしい。