写真左から井手麻里子(エディター)、浜野高宏(プロデューサー)、山崎エマ(監督)、永野知朗(ディレクター)、金川雄策(スクール代表・司会)(敬称略)
少数精鋭でトップクラスの講師陣から指導を受けられる1年間のフィルムスクール「DDDD Film School」が4月から開講する。海外フィルムスクールの教育手法を取り入れ、短期間で効果的に学べるよう設計されている。東京にいながら、世界のドキュメンタリー文化と最新技術に触れることで、他では得られない深い学びを提供する。講師陣は、第一線で活躍する現役の監督、ディレクター、プロデューサー。詳細はこちらから。学びの拠点は、2024年4月に誕生した東急プラザ原宿「ハラカド」内にある会員制クリエイティブラウンジ BABY THE COFFEE BREW CLUB (BCBC)。開校に先立ち、スクールを実施する場所で主要講師陣とスクールの代表である金川雄策氏による座談会が開催された。その模様をダイジェストでお届けする。(まとめ:編集部 一柳)
金川 最初にみなさんの自己紹介をお願いいたします。
永野 東北新社に入社して最初はCMをやっていまして、それから番組部門に移ってそこでプロデュースとディレクションをやってきました。ドキュメンタリーもやりますし、広告もやりますし、企業のビデオもやりますし、あとバラエティに近いような番組とか、いろんなことをやってきました。現在はフリーのディレクターです。
金川 永野さんにはフィルム撮影から教えていただきたいと思ってお声がけしましたが、カメラのコレクションがすごいんですよね。
永野 もともとムービーのカメラを集め始めまして、主に8mm、16mm、35mmの古いカメラを集めていて120台くらいあります。学生の頃は8mmで撮っていたのですが、当時は高価で手に入れるのが難しかったものがeBayでオークションに出るようになって買い始めたのがきっかけですね。あとはスチルの中判、大判のカメラですね。
浜野 私も高校生のときに8mmフィルムから始めて撮影、編集をやっていました。一方でルポルタージュ本が好きで本多勝一さんなどを乱読して影響を受けて、そんなこともあってNHKに入ったんです。報道番組でクローズアップ現代とかNHKスペシャルを担当していたのですが、海外のことが知りたくなって、2000年に米AFIに留学しました。そこで海外の人たちの日本とは違う番組制作のやり方を知ったり、一緒に作った経験から、国際共同制作に携わるようになりました。現在はNHKをやめて独立して映像に関わる仕事をしています。
山崎 ドキュメンタリーの監督、編集、プロデュースをしています。夫もドキュメンタリーのプロデューサーなので、仕事も趣味も人生まるごとドキュメンタリーといった生活をしています。日本育ちですが、映画監督になりたくて大学からニューヨークに行き、そこで自分はフィクションではなくてドキュメンタリーだということに気がついて、大学を出て編集助手からスタートして、約10年間ニューヨークで活動していたのですが、日本のことを撮って世界に発信したいという気持ちがとても大きくなって、5、6年前からは東京にも拠点を作って映画を作りながら、NHKでもいろいろな番組を作ったりしています。最新の映画は、2024年12月から公開されている『小学校~それは小さな社会~』(公式サイト)です。
井手 生まれは日本で育ちはマレーシアですが、大学は日本の東京の大学に入りました。そこでたまたまTokyoDocsの天城(靱彦)さんがドキュメンタリーの授業をされていて、はじめてドキュメンタリーというものがあることを知りました。最初は後ろの席にいたのに、次の授業からは一番前の席でのめり込むようになって、始まったばかりのTokyo Docsで国際共同制作をしている場を見て「かっこいい!」と思って、自分もなにか関わりたいと思いつつも、自分は学生で何もスキルもなくて…。もともと英語も話せたので海外でドキュメンタリーの勉強をしようとニューヨークに行きました。そこで1年間、朝9時から夜の9時までドキュメンタリーしかない生活を送りました。ニューヨークでは普通にドキュメンタリーがカルチャーの中心にあって、かっこいい存在なんです。でも自分は日本のドキュメンタリーのことを何も知らないことに気がついて、日本のフィルムメイキングを知りたいと思って帰国しました。金川さんと知り合ってYahoo! JAPANで5年間、日本のクリエイターの方々と一緒にショートドキュメンタリーを作ってきました。現在はエディターとしてCM、映画などの仕事をしています。
手法を学べば「最強の日本流」が生まれる可能性がある
金川 今回なぜ講師を引き受けていただいたのか教えていただけますか?
井手 私自身フィルムスクールで世界が広がった経験があったんです。いろいろなバックグラウンドがある人たちが集まり、自分とは考え方もやり方も違う人たちとコラボレートすることがすごく楽しくて、現在の自分の作り方、編集の方法に大きな影響を与えてくれました。そういう人が集まれる場所をサポートしたいと思いました。
山崎 日本のドキュメンタリー界には手法という意味で育成が必要だと思ってきました。日本人の性格的なものなのか、相手に対するリスペクトを持ち、我慢強くずっと追っていく、ものづくり職人のような粘り強さがあって、その強みがある一方で手法が限られていると思いました。日本の場合は学校で学ぶというよりも制作会社やNHKに入って、その先輩から学んでいくなかで、どうしても手法が限られていく傾向があるように思いました。いろんなやり方があるんだよということを伝えていくだけで、一気に幅が広がるんじゃないかと思っています。次の世代の方だけでなく、プロとしてやっている人でも、別の手法を知って、全部ではなくてもとりあえず一部を取り入れるだけでも覚醒されていくんじゃないかと。日本独特のやり方は、よく言えば伝統があっていいところもあるけど、ちょっと遅れているところもある。もちろん海外の手法も悪いところはたくさんありますが、良い部分を取り入れることで、「最強の日本流」が生まれる可能性がある。それをみなさんと作っていきたくて、講師をやりたいと思いました。
金川 「最強の日本流」ができたらいいですね。日本人の忍耐強さというメンタリティが混ざり合えば、鬼に金棒なんだろうなと思います。
山崎 日本を「ドキュメンタリー王国」にしたいという野望を掲げています。あまり熱いことを言うので引かれてしまいますが(笑)。
浜野 自分も次世代に伝えたいことはあるけど、日常にかまけてできなかった。まさにそれを金川さんがやろうとしてくれているので、その趣旨に賛同してできることを最大限にやろうと思いました。海外の人たちと一緒に作ることを20数年やってきたのですが、基礎的なことがわかるのに数年かかりました。もちろん言葉の壁も多少あったし、手法の違い、プロデュースのやり方の違い、すべてが目新しかった。アカデミー賞を目指すような人たちの土俵でやればいいんだけど、そこに上がるまでに時間がかかるんですよね。自分は多少関わってきた経験があるので、それを次の世代の人たちに共有できたらと思っています。
永野 日本でその職を覚えるのは、会社に入ってからですよね。日本の大学では何も覚えずに社会に出てそこで先輩のやっていることを見て覚える。自分が入ったころはまだ体育会系な感じだったから、教えてもらうより盗むというような文化でした。でも、早めに取得しておけばよかったということはたくさんあるんですよ。そこは早めに若い人に伝えて、その人たちはその後自分で失敗しながら育っていけばいいのかなという気持ちはあります。
制作側も視聴者もドキュメンタリーのイメージが限定されている
金川 日本の業界のいいところもあるし、課題もあると思うんですけれども、具体的にどういうところが課題だと思っていらっしゃいますか?
永野 日本のドキュメンタリーって「テレビのもの」というイメージが強いですよね。映画として作って劇場で公開するものもありますが、世間的にはテレビのイメージが強い。そもそもそれがいいことなのか、悪いことなのか、どう思われますか?
浜野 いいか悪いかは人それぞれだと思いますが、テレビ局にいた立場で言うと、長年NHKがドキュメンタリーを作ってきて、かつてはもっと表現が自由で本当によかったと思うんです。コンプライアンスも今ほどは厳しくなかったという背景もありますが。ところがテレビも成熟してきて、制約も生まれてきて、この10年、20年はなかなか普通にドキュメンタリーを作るのが難しくなってきた。一方でドキュメンタリーフィルムという伝統はテレビに反発する形でずっと続いてきました。そのテレビとドキュメンタリーフィルムが別世界のまま来てしまったことが、すごく不幸だなとずっと思っていました。だから、山形(ドキュメンタリー映画祭)とNHKで一緒にやろうと画策してきましたが、そんなにうまくいってなかったかもしれません。この10数年ネットが来てからは、テレビとフィルム、そしてネットと、いろいろな出口はあるにせよ、ドキュメンタリーというキーワードでくくれば一緒にものを考えて、新しいことをやっていく時期がちょうど来ていると思います。
海外では、特にアメリカはドキュメンタリーがエンターテインメント映画から影響されて発展してきたところがありますし、ヨーロッパは文化を保護する観点でやってきたし、BBCはNHKと近いスタンスですが、もっと自由度を担保して作らせてくれます。国によって文化が違うので、いい悪いではなく、日本の事情があって、ガラパゴス化しているのは確かだと思います。
日本独特のネタを探す感じから発展した部分もあるので、海外の人にも理解できるような見せ方をがきちんとできれば、一気に花開いてドキュメンタリー王国になる可能性があると思います。
山崎 ニューヨークに住んでいてドキュメンタリーフィルムメーカーですと言うと、みんな「Cool!」みたいな反応なんです。ドキュメンタリーは面白くてかっこいいものなんです。ところが日本に帰ってくると、「お年寄りの方々のために何か公共的なサービスをご提供されてるんですか?」 と言われる。NHKを含めたテレビでは「情報提供」が本当に大事で、ナレーションありきで、わかりやすさ重視。もちろんそういうものもあっていいのですが、全部がそうなっている。視聴者がドキュメンタリーというものをそう捉えてしまっているんです。今公開中の私の映画で舞台挨拶に行くと、感想として、「ナレーションがないものもドキュメンタリーなんですね」と絶対に言われます。この映画をどう捉えていいかわからなくて混乱していて教えてほしいという年配の方も多い。一方でドキュメンタリー界の巨匠が作っているような社会性が強いものもあります。私の映画はそういうものでもないので、メッセージがなくてもいいんですか? とも言われます。日本の一般の人のドキュメンタリーの捉え方が狭いというのが課題というか現状なのかなと思います。
井手 作る上でコラボレーションがないのも課題だと思っています。Yahoo! JAPANでプロデュースしていて感じたのですが、フィルムメーカーはひとりでやっている人が多い。もちろんテレビではディレクター、カメラマン、編集、プロデューサーがいるのですが、一方でドキュメンタリーを作り始める人は大抵ひとりで始めている。そこでコラボレーションの大切さを教えてもらう場がないんです。今は映像編集はアプリでできるし、撮影もカメラがどんどん使いやすくなっている。フットワーク軽く自分で撮影して編集することはできるんだけど、そうすると個人の中でも自分の作り方に深く入っていってしまって、いろいろと試してみたり、いろいろなものに影響を受けるということがなくなってしまいます。コラボレーションの場や機会がないのが課題だと思っています。
金川 Yahoo! JAPANにおいても、クリエーターが企画を出して撮ってきたものに対して、フィードバックはできても、その人のやり方が色濃くあってそこから変えていくのはたしかに難しかった。変わっていく人もいるけど、あまり変わらない人もいて、最初の手癖がずっとそのまま残るということは感じていました。いろいろな人から教わる場というのは必要なんだろうなと思いました。
浜野 アメリカは良くも悪くも見せるということ、つまり視聴者を意識するんです。エンターテインメントから来ているので、見ている人がどう感じるか、感情にどう訴えるかということを考えます。日本の場合、なぜかわからないのですが、自分が何を作りたいかということが前面に出ます。僕の立場はプロデューサーであり、見てもらってなんぼですから、どうしてもそちらを考えるのですが、そういうことを一生懸命やるプロデューサーが意外に少ないですね。クリエイターにとっては、サポートしたり、お金や企画を引っ張ってきたりするようなプロデューサーが育ってくると、より幅広くものづくりができるようになると思うんですよ。作りたいことと見たい人たちの接点を探るみたいなプロデューサー的な立場の人がもう少し育つといいなと思います。
金川 作家性がないと突破していけないし、一方で市場にもちゃんと合わせていかなきゃいけないという、両方のバランスがすごく大事なんだと思います。
日本にはどういう人材が必要なのか?
金川 日本をドキュメンタリー王国にしていくには、どういう人材が必要だと思われますか?
山崎 全部ですね。映像だけで勝負できるドキュメンタリーのカメラマンが全然足りないし、編集の人も足りないし、音声さんも足りない。メインの主要なチームの人材ということでは全部という感じだと思います。
浜野 現場からするとそうだと思いますが、もっと前提の話からすると、外国人に対して精神的な障壁が低い人がベーシックに増えたほうがいいと思います。みなさんは海外経験があるからあまり思わないかもしれませんが、一般の日本人はいまだに外国人が怖いうメンタリティだと思います。ところがいまやこれだけ海外から人が大量に来ているだけでなく、海外の映像というのもNetflixなどで見られるし、簡単にアクセスできる。だから世界で話題の面白いものをすぐ見るという、精神的に障壁が低い人が前提として求められるのではないかと思います。
山崎 そういうタイプの人ですよね。私が大学卒業してからプロとしてやり始めてからの10何年でもこれだけ変わってきている。だから柔軟性がある人ということだと思います。例えばアメリカで一緒にやるカメラマン、クルーは常に1%でもより良いやり方を研究して実践しています。そうしないとフリーランスの世界では声がかからない。もっともっとという進化を楽しみにする精神が必要。現場のスタッフだけでなく、プロデューサーや企画を判断する側も進化が必要で、いま世に何を出すべきかに敏感な人が求められますよね。
金川 これは身につまされる思いもあります。
浜野 そうですね。日本はテレビではサラリーマン・プロデューサー、ディレクターが多いから、当然会社の枠の中でしか作れなくなるのは当然だと思うんです。だから会社自体も考え方が変わらないといけない。今、映像の世界はとても面白いと思うんです。テレビ業界にいるとテレビは終わりだとみんな言うんだけど(笑)、もっと全体を見れば、僕は始まりだ、面白いことができる時代がついに来た! という感じがあって、このスクールができるのはとても良いタイミングだと思います。
金川 具体的に海外のスクールでの経験を振りかえってみてどういう教育が必要だと思いますか?
井手 まず良かったのはいろいろなドキュメンタリーを圧倒的に数多く見たことですね。そこで自分のドキュメンタリー感は完全にぶち壊されました。実際に課題で編集したときにA先生に見せてフィードバックをもらって、それどおりに修正して、次のB先生に見せたら、まったく違うことを言われて頭の中が混乱する、その体験が私はすごく楽しくて、それが自分のためになりました。やり方が全然違う人がいっぱいいて刺激し合う。自分がそれをそのまま受け取って鵜呑みにして、ただやるんじゃなくて、いいところだけを盗みとれるような、アクティブラーニングみたいなことができる環境がいいと思うんです。自分ひとりでやっていく中で、あんまりぶっ飛んだ発想は出てきません。いろいろなものを見たり、いろいろな人と関わり合う中で生まれるものだと思います。
山崎 日本の場合、企画書の文章とかナレーションにおけるみなさんの文章力はすごいと思うんです。企画書の最初の2行の書き方とか。でも映像は、画と音でどう伝えていくかです。私の学校の体験では最初の半年は写真だけ、あと半年は音だけでストーリーを伝えるということをやりました。2年になってやっと映像でストーリーを伝えるという段階になる。だから映像におけるストーリーテラーになるということなんです。だから入試においてもストーリーテラーになれる可能性がある人を探すという観点なんですよね。
ただニューヨーク大学でも、もっとこういうことを教えてくれたら苦労しなかったのにということはいっぱいあります。だから、現場で編集助手として仕事を始めて学んだことが大きいです。ニューヨークのドキュメンタリー界は映画、テレビ、配信とそんなに分かれていなくて、そこで編集の人から学んだり、ディレクターとも関わるし、映像を見れば、カメラとか音声のやり方もわかってくるし。映像素材を通して、ディレクターのあり方を学んだところがあります。
それからコミュニティですね。ニューヨーク、サンフランシスコ、シカゴはたくさん制作者がいますから、そこで情報を共有しあったりする仲間がいることが大きい。若い時はそこに参加して知り合いになって情報交換しつつ、みんな基本的にフリーランスですから、若い人を求めているんです。そこからはいあがっていくシステムがある気がします。
浜野 コミュニティが面白くて、サロンみたいなところがあって情報交換できるし、いまならSNSでしょうけど。日本の業界にはないですよね。みんな仲悪い(笑)。
永野 日本では会社ごとか、自分のネットワークぐらいですよね。だからこのスクールの講師とか卒業生とかに付随してコミュニティが広がると本当は面白いんだろうと思う。
金川 フィルムスクールにいる間には、自分はプロデューサーにだけは絶対なりたくないと思っていたけれども、いつの間にかプロデューサーになっていました。だから基礎を学んだあとは、それぞれ自分の道を開拓していくのは、やってみないとわからないところはありますね。
山崎 私は自分の作品で監督・編集という立場ですが、プロデューサー的なこともやっています。日本ではディレクターだけやっていて、プロデューサーに聞かないとわからないという人が案外います。わたしのなかではそれはなくて。それぞれの職種が何をやっているのかを知っておくことで、リスペクトもできるし、コラボレーションもできると思うんです。
井手 エディターのなかには、プロデューサーとしてのクレジットが入っている人も結構います。つまりプリプロダクションの段階から関わっていて、編集しているわけです。
永野 一方で、職種によっては諸刃の剣的なところもあると思うんですよ。例えばディレクションと編集の両方をやるのか別々にやるのか、どちらにも利点はあると思うんですが、特にディレクターで自分で編集していると、あまりバリエーションを作らないような気がするんです。自分で編集してると面倒くさいということもあるんですが、そこまでの幅が広がらないところはあります。だから専門職があるということも結構大切ですね。日本のドキュメンタリーは、まだまだその専門職が確立されてないとますか。
山崎 資金の問題もありますね。私は編集からスタートしているからなかなか編集を手放せないんだけど、一般的にはディレクターと分かれていることのほうが多いです。
金川 そこもコラボレーションすることで選択肢が狭くならずに、より良いものができていくということですよね。
将来的にはコミュニティになっていてほしい
金川 どういうスクールになっていくのが理想ですか?
井手 ドキュメンタリーというと、難しくて手が届かない、大変なものというイメージがあるので、ハードルを低くして、見る人も作る人もふらっと入れる環境が作れたらなと思います。
浜野 きっかけづくりの場だと思っています。多くのディレクターとつきあってきたのですが、若い人たちは自分の能力が客観的によくわかっていない。なんとなく頑張って悩んでいたり、逆に決めつけていたりする。こういうところがいいからこうすれば? と言うだけで、突然良くなったりする瞬間を何度も見てきました。それを仕事でやってきたわけですけど、授業といっても全部を教えることは無理なので、プロセスの中で、自分の何かに気づけるきっかけを与えられればと思っています。そのあとはもう走ればいいし。実際に業界でやっている人とのコネクションもできるし、その気さえあれば個人的にどんどんお付き合いすればいいわけですし。
永野 日本人の意識の中で、ドキュメンタリーって面白くないとか小難しいとか、そんな偏見があると思うんですよ。でも。僕は多分普通のフィクションの映画よりドキュメンタリーを見たほうが、こんな世界があるんだといういろいろな発見があると思うんです。それをみんなが見つけて、自分でもそういうものを表現できるようになってほしいし、社会全体の認識が変わればいいなと思っています。
山崎 ドキュメンタリー王国を目指していくために、ここで学ぶ人はいずれリーダーになっていってほしい。いずれはドキュメンタリーが文化、社会の中心になっていくために、ここで学んだ人が自分のやり方でやっていけるようになるといいですね。
他の国では、ドキュメンタリーのインスティチュートみたいな場所があります。そこに行けば何か毎晩面白いドキュメンタリーを上映しているし、トークがあったりします。何か制作して困ったことがあれば相談できる弁護士がいたり、会計士がいたりとか、機材も貸し出してくれる。みんなが海外に行けないとしたら、その海外の情報を伝える人がいたり、日本でこういうことがやりたいというときの仲間づくり、クルーを見つけられるというところまでやっていけたらいいと思います。その一歩目として自分ができることを全力でやっていきたいと思います。
金川 それを目指したいですね。みなさん、本日はありがとうございました。