御木茂則
映画カメラマン。日本映画撮影監督協会理事。神戸芸術工科大学  非常勤講師。撮影:『部屋/THE ROOM』『希望の国』(園子温監督)『火だるま槐多よ』(佐藤寿保監督) 照明:『滝を見にいく』(沖田修一監督)『彼女はひとり』(中川奈月監督) など。本連載を元に11本の映画を図解した「映画のタネとシカケ」は全国書店、ネット書店で好評発売中。



『紙の月』(吉田大八監督/14年)はバブル経済崩壊直後の1994年、横浜近郊の街を主な舞台にしたサスペンス映画です。梅澤梨花(宮沢りえ)は夫(田辺誠一)と一戸建ての家に住む、わかば銀行・月読支店の渉外係として働く契約社員です。銀行では真面目な仕事ぶりが評価されている梨花ですが、家庭では自分への関心が薄く、無神経な夫に不満を感じつつありました。

梨花は大口顧客の孫で年下の大学生、平林光太(池松壮亮)に好意を寄せられたことから始まった、不倫を引き金にして顧客のお金の横領をはじめます。梨花は最初は慎重に横領をしていましたが、お金を湯水のように使うようになるとともに、横領する金額もエスカレートしていきます。


1.『紙の月』の見どころ

物語の進行とともに、梨花は破滅への道を進んでいくのですが、『紙の月』は彼女が破滅をしたことでは終わりません。観客は梨花が暴走をしながら、社会のルールを超えて生き続ける姿に、最後は清々しさを感じることになります。梨花は難しい役柄ですが、宮沢りえさんが演じたことで梨花の存在感に強い説得力を与えたことは、この映画を観た人なら異論のないところだと思います。

 『紙の月』の大きな見どころは物語が進むにつれて、梨花の外見が変化をしていくことです。美しいけど少しやつれて存在感の希薄な女性から、華やかで存在感のある美しい女性へとなっていきます。梨花の変化を表現するために、映像、美術などさまざまな面から、『紙の月』は丁寧に作られていますが、梨花の髪型を変えることでも表現されています。


2. ふたりの再会のシークエンスの流れ

梨花の髪型の変化について、最初は梨花が同僚の今井の送別会に出席したあと、駅の改札口でのちに不倫相手になる光太と偶然再会をする、2分半ほどのシークエンス(14分30秒〜)を例にしますが、まずはシークエンスの流れを説明します。

梨花と光太は改札口で再会したあと一旦別れますが、光太は思い直して梨花を追って、彼女と同じ地下鉄に乗ります。梨花は光太が座席を挟んでドア脇に乗ってきたことに気がつき、そしてふたりは互いに相手を盗み見ます。梨花が地下鉄を降りると、彼女の背後で光太も地下鉄を降りますが、歩き去る梨花に声をかけることができず、諦めて再び地下鉄に乗ります。


3. 梨花の髪型の変化

梨花はくっきりとした眉毛をしているのですが、この再会のシークエンスの前までは、梨花が自転車に乗っているときに風でめくれ上がる以外では、前髪を瞼の上まで下ろして、眉毛を隠す髪型にして見せないようにしています。

この前髪は梨花が光太と駅の改札口で出会う直前、梨花が夜の街の中を歩いているときには、分け目を作って少し横に流して眉毛を見せて、彼女にこれから起きる変化をそれとなく暗示をしています。

そしてこの再会のシークエンスの終わりでは、光太が乗る地下鉄が走っていくのを、梨花が振り返って見送ります。電車がホームを通り過ぎるときに吹く電車風は、梨花の前髪をかき分けて眉毛をはっきりと見せます。

このときカメラはスローモーションでゆっくりと梨花に近づいていき、アップサイズで美しい横顔を捉えます。風に揺れる梨花の前髪と背景に走る地下鉄は、映像に動感を与えています。夫からは見られることがなかった梨花は、光太により見られることの楽しさを知り、ときめきを感じていることが表現されています。

 

4. 眉毛を見せない効果、見える効果

眉毛を隠しているとミステリアスにも見えますが、それは同時にその人が何を考えているのかを読み取りづらくするとも言えます。WEBに大量の写真がある歌手のテイラー・スイフトやビリー・アイリッシュで、前髪のバランスで画像検索をすると眉毛を見せるか見せないかで、彼女たちの表情の印象が変わることが感じられるかと思います。

ここで梨花の眉毛を見せることは、自分の意志をはっきりさせなかった彼女が、自分の意志を見せ始めた印象を観客に与えることができます。また眉毛を見せていないときの顔は少し小顔に見えますが、眉毛を見せることで目が大きく見えます。そして肌の露出が増えることで顔が少し大きく見えるので、梨花の見た目の印象の変化を観客は感じることができます。


5. スイートルームでの髪型の変化

短い時間の中で梨花の髪型がさまざまな形に変化をするのが、梨花の横領したお金を元手に、ホテルのスイートルームで梨花と光太が3日間豪遊をする、彼らの不倫が一番の盛り上がりを見せる4分半ほどのシークエンス(61分〜)です。シチュエーションに合わせた梨花の髪型の変化は、主に眉毛と耳を見せるのか見せないのかで分類することができます。

最初は梨花がホテルのロビーで光太を待っているときです。梨花はモノトーンの上下を着て、リボンのついた白いつば広の帽子は被っています。髪は帽子の中に収めることで、顔のラインがすっきりと出て、眉毛ははっきりと見せています。エレガントな雰囲気の梨花からは、これから光太と過ごす日々を楽しみにしていることが演出されています。

次はふたりがスイートルームではしゃいでいるときです。梨花の被っていた帽子が外れて、それまでは耳の後ろにかけていた髪の毛が耳を覆って、髪のボリュームが増して見えます。面長な梨花の顔は丸みを増して、少女のようにはしゃぐ彼女を可愛らしく見せます。2人がお風呂に入っているときには、梨花の髪型を眉毛と耳とおでこをはっきりと見せるオールバックにして、梨花に元気で活発な印象を与えます。

そしてスイートルームでの最終日の早朝、梨花がひとりリビングに座っているときです。梨花が3日間で、150万円近く使う贅沢をしたのに心が満たされていないことは、眉毛は隠して耳を見せ最初の髪型に戻していることからも、感じることができます。梨花の髪型の変化は、彼女の内面を観客が察することを助け続けます。


6. ふたりの再会の色味のコントロール

梨花が光太が駅で偶然再会をしたシーン(14分30秒〜)のあと、いくつかのシーンを間に挟んで、駅のホームでふたりが再び再会をするシーン(21分18秒〜)があります。今度は梨花から光太へと近づいていき、そのあとふたりはラブホテルへ行きSEXをします。

ふたりが駅で再会するシーンでは、映像の色味は2回ともシアン系ですが、2回目はさらに濃いめのシアンが使われています。そしてラブホテルでは、濃いシアンとは相反する濃い色味の赤を使って映像に強いインパクトを持たせて、映像からも梨花の行動を後押しする強い衝動を描いてます。

この2回目の再会の前にある3つのシーン(化粧品売り場・銀行のATM・銀行)の映像の色は、色味に偏りのないニュートラルな白系を使っています。ニュートラルな色味を続けて使うことで、観客の気持ちを一旦落ち着かせて、ふたりの再会のシーンで使われる濃い色味の刺激を感じ取りやすくしています。


7. 小道具にCLINIQUEを選ぶ効果

2回目の再会で、梨花がなぜ自分から光太へ近づく選択をしたのかが分かるのが、2つの再会のシーンの間にある、梨花が外回りの帰りに立ち寄ったショッピングセンターの化粧品売り場で、化粧品を4万円近くを衝動買いするシーン(19分〜)かと思います。

このシーンは梨花が、のちのち横領をするようになることを暗示する重要なシーンですが、ここでは梨花が買う化粧品のブランドになぜCLINIQUEが選ばれているのかを考察します。このブランドは日々のスキンケアの重要性を説いて、「素晴らしい素肌」を創造することを目的とした、基礎化粧品に強いブランドです。上辺を綺麗にする化粧品ではなく、地道なスキンケアを必要とするけども、本当の美しさを得られるCLINIQUEを衝動買いをしたことに、梨花が見られることを求めている気持ちの真剣さが伝わります。そしてその衝動の動機となった光太が再び目の前に現れることで、梨花は光太から再び見つめられることを望んで、自分から近づいていく選択をしたと考えられます。(次回に続く)


参考資料 :『紙の月』Blu-ray、Blu-ray特典ブックレット、『紙の月』脚本



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御木茂則 著
出版年月日 2025/03/10
書店発売日 2025/03/10
ISBN 9784768320235
Cコード 0074
判型・ページ数 A4・152ページ
定価 3,300円(税込)

https://videosalon.jp/blog/taneshikake_j/