御木茂則
映画カメラマン。日本映画撮影監督協会理事。神戸芸術工科大学  非常勤講師。撮影:『部屋/THE ROOM』『希望の国』(園子温監督)『火だるま槐多よ』(佐藤寿保監督) 照明:『滝を見にいく』(沖田修一監督)『彼女はひとり』(中川奈月監督) など。本連載を元に11本の映画を図解した「映画のタネとシカケ」は全国書店、ネット書店で好評発売中。

『たそがれ清兵衛』(02)は山田洋次監督の76本目の作品にして、初めての時代劇です。藤沢周平氏の時代小説「たそがれ清兵衛」「竹光始末」「祝い人助八」、3本の短編を原作にしています。時代設定は幕末、舞台は庄内(現在の山形県鶴岡市)にある架空の藩・海坂藩です。下級武士のひとり、井口清兵衛(真田広之)の着物はつぎはぎだらけ、無精髭を生やした見すぼらしい姿をしています。「たそがれどき」に城内での仕事が終わると、そそくさと家路に着く清兵衛を、同僚たちは「たそがれ清兵衛」と呼んで小馬鹿にしています。清兵衛が早く家に帰るのは妻に先立たれたことで、ふたりの幼い娘・萱野(伊藤未希)と以登(橋口恵莉奈)と、少し耄碌をしてきた母・きぬ(草村礼子)の世話、そして借金返済のため内職をする必要があったためです。清兵衛は貧しく厳しい生活を送っていますが、自分のことを惨めとは思っていません。平穏な生活を送っていた清兵衛はある日、幼なじみの飯沼倫之丞(吹越 満)の妹・朋江(宮沢りえ)の危機を救ったことで、優れた剣の腕を持つことが知られます。そして清兵衛は藩内の内紛に巻き込まれます。

娘たちの盾となる姿勢を示すブロッキング

清兵衛の暮らしは貧しいのですが、教育方針は進歩的で、萱野と以登を寺子屋へ通わせて学問を学ぶことを奨励しています。ある日、清兵衛の母・きぬの兄・井口藤左衛門(丹波哲郎)が訪ねてきて、清兵衛の城内での失態を激しく叱責するシーン(15分47秒〜)があります。このシーンの中で、庭向けで清兵衛、萱野、藤左衛門が座っている引き画のショット(16分47秒〜)では、古い価値観に縛られた藤左衛門は、萱野に学問を学ぶことを無意味だと言い切ります。そのあと萱野がその場を立つと、清兵衛は萱野が座っていた位置へと動きます。さり気ないブロッキング(舞台での俳優の動きや位置を示す用語)ですが、清兵衛の座る位置が藤左衛門と娘たちの間に入ることで、清兵衛が娘たちの盾となって、藤左衛門から娘たちを守ろうとする姿勢を見せます。

清兵衛一家を自然な明かりで映す照明

清兵衛一家は、日中も夜も薄暗い部屋の中で慎ましく暮らしています。室内の照明は、昼は外光、夜は行灯と囲炉裏を光源にしています。とても自然な明かりで映す映像は、清兵衛を実在する人物であるかのように見せて、感情移入を映像からもしやすくします。

同時にこの照明は巧みに、清兵衛の心情を表現します。夜、囲炉裏を囲みながら、清兵衛が内職を手伝う萱野と以登に、新しい母親が欲しいかと尋ねるシーン(20分15秒〜)では、行灯の柔らかい光はふたりの娘の顔を正面から明るく照らしていますが、清兵衛の顔は片側だけを明るく照らしています。この照明は、萱野の「おとはんがいてはるさけ、寂しくね」という健気な言葉に、清兵衛の嬉しさと申し訳なさを無い混ぜにした気持ちを、映像からも感じさせます。この清兵衛の顔の片側だけを明るく照らす照明は、映画の要所で使われることは後述します。

カメラの動きで次第に明るくなる部屋

幼なじみの飯沼朋江が突然、清兵衛の家を訪ねてきたシークエンス(29分16秒〜)では、晩年の以登(岸 惠子)による「朋江さんがおいでになった途端、家の中がぱあっと明るくなったような気がしたものです」というナレーションの通りに、室内に初めて陽の光が入ってきて映像も明るくなります。

清兵衛、朋江、萱野と以登、母のきぬ、朋江の侍女の6人を映す、庭から部屋向けの引き画のショット(31分11秒)ではふたつのカメラの動きで、陽の光がフレームの中で当たる面積を増やしてゆき、部屋の中を次第に明るくしていきます。最初は移動車に載ったカメラが、トラックバックで後ろへ下がると、陽の光が当たる障子がフレームの左右から、畳がフレームの下から入ってきます。次にカメラが下方向へティルトダウンをすると、陽の光が当たる鳥籠が入ってきます。

このショットでは、朋江がフレームのセンターにいることと、朋江へ強く照明を当てることで、部屋の明るさの源が朋江であることを示します。朋江の肌の白さと、着物の半衿の白さがこの印象をより強めています。また3人から6人に映る人を増やしていくブロッキングで、朋江が来たことで清兵衛の家が賑やかになっていくことが描かれています。

照明で登場人物の気持ちを観客に感じさせる

このシークエンスで夜に夕食を食べるシーン(32分23秒〜)では、行灯を光源にした照明が、全員の顔を正面から明るく照らしています。朋江が来たことで薄暗かった室内は、灯りがともったように華やいでいることが照明からも描かれます。

夕食のあと、清兵衛は囲炉裏の前で内職をして、朋江と娘たちは隣の部屋で手遊び歌を歌っているシーン(33分34秒〜)では、清兵衛が娘たちに新しい母親が欲しいかと尋ねたシーンと似た照明が使われます。

朋江たちに当てる照明は、正面めから顔を明るく照らしていますが、清兵衛に当てる照明は、顔の片側だけを明るく照らしています。娘たちが朋江に甘える姿から、娘たちが気丈なふりをしていたことを、清兵衛が察しているのを感じさせます。

このシーンの最後は、清兵衛と朋江の顔をアップで交互に映すカットバックで終わります。朋江が清兵衛の視線に気がついて、清兵衛に視線を送ると、清兵衛は顔を伏せます。余計な説明的な台詞を使わずに、清兵衛が朋江に対して、幼なじみ以上の感情を持っていることを匂わせます。

筋道の通った照明による映像演出

ある日、藩内一の剣客・余吾善右衛門(田中 泯)が、清兵衛の剣の腕を知って、兵糧蔵で仕事をする清兵衛を訪ねてくるシーン(47分29秒〜)では、再び清兵衛の顔の片側だけを明るく照す照明が使われます。右側に清兵衛、左側に余吾を映す2ショットでは、余吾の只ならぬ雰囲気に、清兵衛が嫌な予感を感じていることを見せます。のちに清兵衛が藩命により刺客となって、余吾と戦う運命を匂わせます。

清兵衛の顔の片側だけを明るく照す照明が最後に使われるのが、清兵衛が余吾を討つ藩命を受けたあと、真夜中に小太刀を研ぐシーン(83分41秒)です。清兵衛が死を覚悟している緊張感が、照明からも描かれます。筋道の通った照明による映像演出は、清兵衛が言葉に出さない気持ちを汲み取ることを助けます。

清兵衛にとって朋江と娘たちが生を象徴する存在で、余吾が死を象徴する存在であることは、光の明暗からも描かれます。余吾が登場するのは、清兵衛の仕事場を訪ねてくるシーンと、余吾の家で清兵衛と余吾が戦うシーンです。どちらのシーンも余吾には正面から光を当てず、顔を暗くすることで、余吾が死を象徴する存在であることが描かれます。

清兵衛にとって娘が生きがいであるのを感じさせる光

朋江と娘が初めて劇中に登場するときには、明るい光を顔に当てることで、彼らが生を象徴する存在であることを描きます。娘に明るい光が当たるのを見せるのが、映画の冒頭、城から帰宅をした清兵衛が、道で遊ぶ以登を見つけるシーン(5分24秒〜)です。清兵衛が娘の以登を高く抱き上げるショットと、次のショットで映る清兵衛の自宅には、正面から明るい光が当たります。

以登と彼らが住む家を、光が明るく照らすショットを続けて見せることで、清兵衛にとって娘が生きがいであるのが感じられます。またこのシーンの前までは、正面から光が当たらない、暗めの映像のシーンが続くことでも、このふたつのショットの明るさは印象に残ります。

朋江に明るい光が当たるのを見せるのが、清兵衛の家を訪ねてきたシーンで、朋江が初めて顔を見せるショット(30分5秒〜)です。このショットでは最初は障子の影で、朋江の顔はうす暗く、朋江が身を乗り出すと、光が顔に当たり明るくなります。朋江の顔の明るさの変化は、彼女の存在は生を象徴するだけではなく、清兵衛の日常に大きな変化が起こす存在になることを暗示します。


「映画のタネとシカケ 現代日本映画編」~なぜ好きな映画は何度も観たくなるのか?(著・御木茂則)全国書店、ネット書店で好評発売中

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御木茂則 著
出版年月日 2025/03/10
書店発売日 2025/03/10
ISBN 9784768320235
Cコード 0074
判型・ページ数 A4・152ページ
定価 3,300円(税込)

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