3月15日から新潟で開催される「第2回 新潟国際アニメーション映画祭」。同映画祭の実行委員会委員長を務めるのは、ユーロスペース代表で、数々の映画監督を発掘してきた堀越謙三さんです。堀越さんに、映画祭を実施する目的や映画祭の今後の展望についてお話を聞きました。
取材・文●編集部 伊藤
――そもそもなぜ長編アニメーションに特化した映画祭を立ち上げられたのでしょうか?
長編アニメーションの制作は、実写に比べてものすごくお金がかかるんです。日本は2、3億円ですが、例えば韓国では10億円以上かかる。ある意味で先進国の贅沢芸術と呼ばれていたわけです。そのくらいお金がかかるので、これまでアフリカや南米からアニメが出てくることはまれなことでした。だから、そもそも制作される本数の観点から、昔は長編のアニメーション映画祭の実施自体が不可能だったんです。
そこに技術革新が起きたり、新海 誠監督のように、ひとりでまるまるアニメを作る人が出てきたりしたこと、さらに配信プラットフォームの増加により、急速に長編アニメーションの数が伸びたんです。
今の日本において、オリジナルで劇場のアニメーション作れる人は宮崎 駿監督とか湯浅政明監督とか新海誠監督とか10人くらいじゃないでしょうか。その人たちが、1本の長編映画の制作に3年かかるとすると、単純計算すると1年に3本しか出てこないということです。そのぐらい劇場用のアニメーションはレアなものなんです。なのでそこに関わる作り手たちにスポットを当てたいなという意図があります。
さらに長編の映画祭をやることによって、日本では今までアーティストとしてみなされておらず、賞の対象から無縁だったテレビシリーズの監督たちに光が当たるわけです。
「新潟国際アニメーション映画祭」は、アジア最大の長編映画祭とうたっていますが、実は長編アニメーションをメインとした映画祭の実施は世界でもかなり珍しいことなんです。例えば、アヌシー国際アニメーション映画祭も現在は長編部門を設立していますが、メインはアートアニメーションなので、長編部門はサブ的な位置づけとなっています。
アニメを取り巻く世界的な状況から見て、そういうものがだんだんこれからひっくり返っていくかもしれない。今年は29の国と地域から49本の応募があったというのは、世界に長編アニメの映画祭がないから、こちらに集中してきたという背景があります。
もうひとつ、僕が今、新潟の開志専門職大学のアニメ・マンガ学部で教えていて、インディペンデントな場で創作をしている人たちが活躍できるような場を作りたいというのがあります。
――学生の方のためにというお話もありましたが、今回の映画祭にはフォーラムというプログラムがあり、その中で「新潟アニメーションキャンプ」という企画も実施されるそうですね。プログラムを企画された意図をうかがってもよろしいですか。
実写では東京フィルメックスで、ベルリン国際映画祭の人材育成プログラム「ベルリナーレ・タレンツ」のアジア版である「タレンツ・トーキョー」という人材育成プログラムがすでに実施されています。ただ、アニメーションではそういうイベントがなかったんです。今や世界中で愛されているアニメで同じことをできないかなと考えました。
映画祭という超一流のクリエイターたちが集まる場で、そういう人たちの話を直接聞く機会を若い人に与えられれば、いろんなチャンスも出てくるし、参加者たちも感じるところがたくさんあるはずです。
アジアからの参加者を募る目的は、長期戦略として新潟にアジアのインディペンデントのマーケットを開拓し、作り手やプロデューサーが、混在して新潟に出入りする状況を作りたいからです。そこでネットワークを作り上げたいと思っています。
映画祭というのは鮭の遡上のようなもので、自分が長編作品を作ったとき、過去に参加した映画祭に戻ってくるケースが多いんです。だからそういうことも含めて、プログラムの参加者がまた新潟に出品したいなと思ってくれるのを期待しています。
作り手にとっては、実際に参加した海外の映画祭が強烈に印象に残るはずです。気の長い話ですが、10年後、15年後に彼らが長編作品を作ったときに、また新潟に戻ってきてもらえるように、今からその状況を作っておきたいんです。
――第1回の参加者の反応はいかがでしたか?
期間中はいろんな映画を見られるし、その監督などから話を聞けるので、講義が終わると講師を取り囲んで質問攻めにしていましたね。みんな熱心でしたよ。講義以外には懇親会も実施しました。今はみんなスマホで自分の作品を見せられるので、監督たちにコメントしてもらっている風景もみられました。それと、競争相手と知り合いになることもすごく刺激になるので、満足してもらえたようです。
――お話をうかがっていると「後進育成」というのがこのイベントのキーワードになるのではないかと感じましたが、これからアニメーション制作の道を目指す方にはどういう視点や素養が必要だと思いますか?
僕は何でもいいと思っていて。「何でもいい」というのはつまり、才能が出てくるには混沌が大事なんです。よく「作家もプロデューサー的な視点を持つべき」という意見もありますが、それを実際にできる人はほとんどいません。
当たる/当たらないに関係なく、自分がやりたいことや自分しかできない表現を突き詰めていくことを35歳ぐらいまでやると、世界がびっくりするような表現にたどりつくかもしれない。
この混沌というのはジャンルも含めての話です。例えば、ゲームエンジンでアニメを作っていく時代がくる、というのは押井 守さんがずっと言ってきたことです。そうするとアニメやゲームの境がなくなってきます。それに、今は技術が発達して視聴方法もコンテンツも多岐にわたり、映画という形態やジャンルを望んでいるのかということ自体が怪しくなってくるわけです。
日本は作品をジャンルで規定してしまうケースが多いですが、作り手は自分の作風を確立するまではいろんな映像表現にチャレンジができたほうがいいと思っているので、あまり「こうしたほうがいいよ」ということはないと考えています。
――これまで堀越さんが作品の買い付けや制作をするなかで、作品や監督のどういう部分を面白いと思って選ばれてきたのでしょうか?
インディペンデントの場合、予算の関係でどうしても新人発掘が必要になるんです。そのとき、あまりに個性がありすぎて、他の会社ではできないだろうというような監督や作品には言葉にできないくらいの愛おしさを感じます。蓮實重彦さんに「世界の問題児はみんな堀越さんのところに集まりますね」と言われたことがありますが、その言葉になんともいえない喜びも感じましたね。
ただし、作品が一度大きな賞を獲ると、より大きな配給網での公開が作品にとっても幸せになるというケースがほとんどです。そのとき、自分はそこから手を離すべきというのが僕の哲学です。
そういう形で、ヴィム・ヴェンダースやフランソワ・オゾンたちも僕の元から巣立っていったわけですが、親交はずっと続いていくんです。今では自分が作品を購入することはないけれど、新作ができるたびに必ずメールをくれる監督もいます。また、久しぶりにベルリン国際映画祭に行った際も、パーティーに参加するとアキ・カウリスマキが隣に座らせてくれて…というような関係が続いています。
僕らのように作る能力がない人間にとって、マイナーであっても映画史に残る監督たちとの信頼関係を築いていけることはとっても嬉しいことです。そういうことが一番のモチベーションになっています。
業界的にはヒット作を扱うほうがよいのかもしれませんが、インディペンデントな作品を扱うからこその楽しさもあるのではないでしょうか。本当に自分の好きな監督を何人か見つけられれば、本当に幸せな映画人生を歩めますよと伝えたいですね。
――最後に、娯楽の選択肢がたくさんある今のこの世の中で、アニメーション映画の面白さというのはどういうところにあると思いますか?
映像表現にはひとつの文法があって、そこに新しい発見があるといつも新鮮だし、そういう作品を見れば鳥肌が立つ。そのような体験をしたいというのが常にあります。
すべての中心にあるのが「物語」です。ある漫画家の先生が「物語が7割、絵が3割」と言っていたことがあります。物語が面白いと、連載が続きますよね。そうするとどんなに下手なやつでもだんだん上手くなると。だから、絵が下手でもいいから、面白い物語を作れるやつは勝ち残ってくんだ、と。
アニメや漫画は、実写と違って自由に絵で表現できて、ある意味で「嘘」のあるファンタジー的な要素を描写できるのがひとつの強みなわけじゃないですか。突飛なことでも視聴者に疑問を持たせずに面白く見えてしまうという。そういう要素が大事なんだろうと思います。実写の映画だと「あれはCGなのだろうか」というように余計なことを考えることもありますが、アニメや漫画は素直にそういうものを受け入れられる媒体です。それぞれ独自の表現方法っていうのがあって、そこが面白いですね。
堀越謙三さんプロフィール
1967年早稲田大学第一文学部独逸文学専修卒業して渡独。1970年にマインツ市で会員制旅行代理店「欧日協会」を友人と創業。1971年マインツ大学ドイツ文学科修士課程を中退して帰国。1977年にヴィム・ヴェンダース、R.W.ファスビンダーらニュー・ジャーマン・シネマを紹介するドイツ新作映画祭を開催、自主上映活動を開始。1982年、旅行代理店を日本航空に売却した資金で、東京・渋谷にミニシアター「ユーロスペース」を開館、以来独自の買い付けによる興行、配給を行い、クローネンバーグ、カラックス、アルモドヴァル、トリアー、蔡明亮、カウリスマキ、キアロスタミ、オゾンら作家映画を系統的に配給し、ミニシアターブームを牽引、1991年からは日本映画の製作や海外との共同製作を手がける。
1997年に財団法人アテネ・フランセと共同で特定非営利活動法人「映画美学校」を設立。1999年金沢にミニシアター「シネモンド」開館。その後東京藝術大学からの依頼により大学院映像研究科の立ち上げを藤幡正樹氏らと主導、2005~2013年の定年までの8年間、同大学院教授(現名誉教授)を務める。退職後は早稲田大学理工学術院客員教授、日本大学映画学部非常勤講師を歴任。
ユーロスペース代表取締役の傍ら、2014年に立ち上げたライブホール「ユーロライブ」で「渋谷らくご」「渋谷コントセンター/テアトロ・コント」「浪曲映画祭」などの定例自主公演を行う多目的ホールの席亭も勤める。
また2021年4月より、新潟市所在の開志専門職大学アニメ・マンガ学部を起ち上げ、2023年より学部長に就任。