ドキュメンタリー映画監督に訊く④『鳥の道を越えて』『坂網猟』の今井友樹さん


2014年に公開された今井友樹監督の『鳥の道を越えて』はキネマ旬報の文化映画部門1位、科学技術映像祭内閣総理大臣賞、グリーンイメージ国際環境映像祭グリーンイメージ賞など、高く評価された。その映画の中でも取り上げられている石川県加賀市での片野鴨池で伝承されている坂網猟を掘り下げた記録映画『坂網猟ー人と自然の付き合い方を考えるー』は今年、2019年のグリーンイメージ国際環境映像祭でグリーンイメージ賞を受賞している。

今井友樹監督と初めてお会いしたのは、数年前に東京の中央線の一駅、西荻窪のギャラリーみずのそらで開催された『鳥の道を越えて』の自主上映会でだった。まず映画を劇場公開をして、その後で全国各地で自主上映会を開催していくというのはドキュメンタリー映画の成立方法のひとつのあり方だが、監督自らが小さな上映会に積極的に参加し、上映後のトークで受け答えする姿勢に興味を覚えた。今回の『坂網猟』のタイミングで、今井監督のバックボーンや、作品の作り方、そして映画として成立させる苦労についてお話を伺った。(一柳)

今井友樹監督プロフィール

1979年岐阜県生まれ。日本映画学校(現・日本映画大学)卒。2004年に民族文化映像研究所に入所し、所長・姫田忠義に師事。2010年に同研究所を退社。2014年に劇場公開初作品・長編記録映画『鳥の道を越えて』を発表。2015年に株式会社「工房ギャレット」を設立。https://studio-garret.com/

 

民族文化映像研究所との出会い

ーー映像制作を志したきっかけを教えてください。

 映画監督になりたいと思ったのは小学生の頃です。父親は大工で寡黙でした。夜、テレビで映画がやっていると、お風呂の時間になっても、父親は映画に夢中になっていて、僕が話しかけても反応しないんですよ。父が虜になってしまう映画ってなんなんだろう、と思ったのがきっかけでした。はじめは僕も父親の後を継いで大工になりたいと思っていたのですが、次第に映画を作りたいと思うようになりました。そこから、15年くらいはどうやったら映画監督になれるのか悶々と考えていました。

ーー学校は日本映画学校(現・日本映画大学)に入られています。

 はい。映画監督になりたいという思いはあったけど、どうやったらなれるのかわかりませんでした。大学は夜学に行き、昼はバイトに明け暮れ、テレビのカメラアシスタントなどをしていました。テレビの現場で働いていると余計に立ち位置がわからなくなって、焦りが出てきて。日本映画学校というのがあるということは、小学生くらいのときから知っていたので、まずはそこに行ってみようと思ったんです。

 映画学校に入ってからは、バイトはせずに学校がメインで。3年の期間で一通りのことは教えてもらいました。学校に入る前は、劇映画やドラマの世界に興味を惹かれていて、ドキュメンタリーのドの字も知らなかったんです。一年生のはじめの実習で人間研究(現在は人間総合研究)という授業がありました。そこで、自分がそれまで知っていそうで知らない、祖父母の戦争体験のことを取材することになりました。その時の指導講師、小池征人監督がドキュメンタリーの魅力を教えてくれました。宮本常一など民俗学者の本を勧めてくれたんです。それを読んでいたら、民俗学の方面で、映像で記録する集団があるということを知り、それが民族文化映像研究所(民映研、姫田忠義氏が創設)だったんです。そんなところがあるのかと、パソコンを買ってインターネットにつないで最初に調べた検索ワードが民族文化映像研究所で(笑)、調べてすぐに訪ねていきました。

 創設者の姫田さん本人が対応してくれたんですが、会うなり姫田さんから「君が何者か教えてくれ」と言われました。ところが僕はそれまで自分を語る経験がなかったので、とりとめもなく、いろんなことを話してしまいました。それでも姫田さんは僕の目を見つめて、対応してくれたんです。何者でもない僕の話をちゃんと聞いてくれる大人がいることに驚きだったのですが、同時に自分のことをどう伝えていいのか悩みました。そのときに、父親の話をしたんです。大工の道を諦めて映画の世界に行きたいと思ったけど、師匠がいなくて。「僕は師匠が欲しいんだ」という話をしたんです。姫田さんはそれを覚えていて、僕が学校を卒業するときに、「民映研にこないか」と声をかけてくれました。僕は無給でもいいから、民映研に関わりたいと思っていたので、幸運にも学校を出るタイミングで働かせてもらえることになったんです。民映研にはカメラマンとかいろんなスタッフが出入りしていました。最初は姫田さんの演出助手として入ったんですけど、少人数だったので、カメラの助手もやるし、録音もやるし、編集もやるし、事務方の仕事もやるし、全部やらせてもらったおかげで、独立後も一通りできるようになりました。

ーーそれまでは民俗学とか民族学には興味がなかった?

 そうなんです。その世界に触れてみると、自分が生まれ育った故郷のおじいさん、おばあさんたちに光が当たる学問でした。そういうことが映像作品として成立することも想像できなかったんです。民映研の映像をみると、北海道のアイヌの映像だったり、沖縄の芸能の映像があります。自分の故郷である岐阜県の片田舎(東白川村)のおじいさん、おばあさんたちの姿と重なる部分があって、それが魅力的でした。僕自身、自分の足元を撮ってみたいという気持ちにだんだんとつながっていったんです。

ーー民映研には何年いらっしゃったんですか?

 2004年から7、8年です。僕のこだわりなのですが、父親は中学を卒業して、3年修行して6年恩返して、9年後に大工として独立しました。大工の世界では、そういう徒弟制度のなかでやってきたそうなので、僕も民映研に9年はいようと思っていたんです。実際3年働いてみて、あと6年で恩返しできるかなと考えたとき、できないということに気がついて。何をもって恩返しになるのか、僕なりの答えを見つけなければならない。その答えが自分で作品を撮って、独立して姫田さんに映像を見せるということだったんです。辞める理由はなかったかもしれませんが、『鳥の道を越えて』という映画を作るべく民映研を辞めました。

ーーこの映画の取材はいつからですか?

 

 2006年には取材を始めています。ちょっとした休みができるたびに岐阜に帰って取材しました。

―映画の完成は?

 8年後の2014年ですね。自分でもよくモチベーションが持ったなと思います。子供のころ、おじいちゃんが話してくれた故郷の昔話がたくさんあったんですけど、そのなかで特に印象に残ったのが、空を真っ黒にする鳥の群れの話だったんです。改めてカメラを向けて聴き始めました。だんだんわかってきたのは、その鳥を捕っていたということ。しかもそれは禁猟以降もやっていて、それをまともに取材したら齟齬がおきてしまいます。そこで非常に悩んで、民映研の先輩たちに相談したんです。そうしたら、「すぐに作って世に出すということを考えるんじゃなくて、10年後、20年後に発表すれば良い。記録として残すべき価値をあるものを、しっかりと撮ればいいんだ」と言われ、そこからは焦って作ることをせずに、じっくりと構えるようになりました。

ーーまずは一人で撮影を始めたんですね。

 2006年の1月2日に取材をスタートしました。年末のセールで買ったHDVの業務用の小さいカメラ、ソニーA1Jでした。それが3、4年ですね。

それでは細かい操作ができないんで、FX1を中古で買った記憶があります。最初は大事だと思うことにはすべてカメラを向けていました。それで60時間くらい。途中から、いよいよ作品にしようということで、2011年に研究所をやめた際に助成金を検討しました。トヨタ財団が一般の人も対象にして研究助成を出していたので、映画を作るということを成果目的として、助成金申請をしたんです。その場合、テーマを絞り込む必要があります。そこで「鳥の道」の話にして申請をしたら、採択されました。

 そこからはスタッフをつけて撮影を続けることになりました。やはり一人ではできないというか、限界があったので、民映研の先輩カメラマンに協力してもらい、姫田さんにも現場に来ていただきました。僕が聞き逃したことや反応しきれないことでも、先輩カメラマンが反応することもありますし、アドバイスをもらいながら撮影していきました。

ーーどういうアドバイスを?

 たとえば相手のおじいさんが大事な話をしてくれているときに、僕は生返事で「はい、はい」と聴きながら、実は頭の中では次の話を用意していました。向こうは僕の態度でそのことがわかるんですね。それを叱ってくれたりとか。あとは、おじいさんが僕の質問に答えてくれるんですけど、僕が理解できるほどの度量がないことがわかると、おじいさんはカメラマンに向かって話はじめるんですよ。カメラマンは深く頷いて聞いてくれて。だから、おじいさんがどんどんカメラ目線になっていってしまう。自分の力不足を感じるような映像がいっぱい記録として残っています。

監督兼録音担当

ーースタッフはカメラマンと今井さんのお二人ですか?

 ほとんどがそうです。先輩カメラマンが参加してからは僕が録音を担当しました。

ーーなるほど。その続編にあたる『坂網猟』でも今井さんは監督兼録音としてクレジットされていますよね。監督兼録音というのは今井さんにとってはノーマルなスタイルですか?

 そうですね。少人数体制が基本なので、二人で取材するとしたら、僕が録音ですね。ちゃんと録音マンがつくときもありますが、いまもディレクターだけの仕事は手持ち無沙汰でやりにくいです。録音を担当することをディレクターとして嫌がる人はいるかもしれませんが、映画学校時代の恩師、小池征人監督が、土本典昭監督の現場で助監督をやっていたときに、ナグラで音を録っていたそうです。インタビューする時に人の話をしっかり聞けるのは録音マンだと常におっしゃっていました。だから、民映研で音を録るという役割を与えられたときは嬉しかったですね。

ーー録音の装備は?

SOUND DEVICESで2チャンネルのミキサーMix Preというのがあって、それを使っていました。マイクはゼンハイザーの416にブーム。ワイヤレスは民生用です。音を別録りする場合は、タスカムのDR-40を使いました。

[資料機材]
使用カメラ:ソニーHVR-A1J、HDR-HC3、HDR-CX630V、HVR-V1J、HVR-Z1J、HDR-FX1、NEX-VG30、HDR-AX2000、HXR-NX5J、HDR-AS15、キャノンEOS 7D、EOS 5D Mark II
使用マイク:ゼンハイザーMKH416、ロードNTG-3
使用ミキサー:SOUND DEVICES MixPre (MixPre-Dの前機)

[製作の期間]
取材開始:2006年1月1日
取材終了:2014年1月9日
のべ日数約360日(移動日含む)
初号試写:2014年3月19日

 

口コミで広がって映画が成長していった

ーー映画が完成してからの配給、宣伝について教えてください。

『鳥の道を越えて』はトヨタ財団から助成金が2年間出ました。その間に文化庁の文化芸術振興費補助金をもらって完成させ、11月1日から渋谷のイメージフォーラムで公開しました。通常、劇場公開映画は、配給会社にお願いして半年くらいかけて広報するんですけど、民映研では自分たちでやっていたので、配給も自分でやることにしました。試写会を何度かやり、11月に東京で公開、その後、地方で公開していくのですが、結果からいうと、イメージフォーラムさんにはご迷惑をおかけするような動員だったんです。その原因は僕が宣伝で周知させることができなかったということです。その後、文化庁映画賞を受けたり、新聞のメディアに載るような機会が増えました。それまでは全然アピールしていなかった鳥関係の人たちからも興味をもっていたいだいて、野鳥の会の広報誌に載ったり、口コミなどでばっと広がったんです。その反応が大阪、名古屋あたりで上映しているときに返ってきました。地方では結構観ていただけたんです。

ーードキュメンタリーはそのテーマに興味を持つ人たちにちゃんと知らしめられるかが重要ですね。

本来は作っているときから、そこをを考えるべきだったのですが、まったく意識してなかったんです。

ーー民俗という観点ではありますが、鳥も重要なモチーフですね。野鳥ファンからしても面白いネタなんですよね。

そこに気がついていませんでした。

ーー劇場公開後は自主上映をされています。

この映画は、映画自体が成長して、一人歩きしていったところがあります。当時、ドキュメンタリーの一般的な貸出料は10万円くらいが普通でした。「鳥の道を越えて」は、平均よりも安く5万円で貸し出しました。現在は3万円になっています。少しでも多くの人に見てもらいたいからです。自主上映の問い合わせを受けるのも僕なんで、先方の事情とか気持ちを聞くと、つい応援したくなって…。でも、おかげで、お金じゃない部分で財産が増えていきました。呼ばれてもいないのに上映会場に赴いたり、機材のセットをもっていったり、設営までして。映画を見た後の意見交換で反応がいただけるとそれが嬉しくって。

ーー自主上映は何回くらいにされたんですか?

 去年の時点で、100回を超えていました。そのほとんどに顔を出していますね。

ー上映したいという方はどういう人が多いですか?

  まず、野鳥や自然が好きな人。地方の文化を大事にしたいと思っている人、自然環境教育、地域づくりなどの団体が多いですね。ドキュメンタリー映画というジャンルではのぼってこない映画ですので、口コミで広がっていったんだと思います。

 ーーただ、映画としてもキネ旬で高く評価されましたしよね。

  なにが評価されたのは自分でもよく分からないんですけど。何が映画として評価されたのかは、いま分析しているところです。「坂網猟」もそれを考えてできた映画ですね。

ーー「坂網猟」はその続きというわけではないんでしょうけど、「鳥の道を越えて」と関連する映画ですね。

「鳥の道を越えて」の一部に鴨猟、坂網猟が出てきまです。「鳥の道」が完成した翌年にお世話になった保存会の方たちに連絡して、坂網猟だけで作品を作りたいという希望を伝えました。保存会のほうも結成20年を迎えるということで、市の伝統文化として映像にして全国に発信したいという思いがあり、映像作品でどういうことができるか検討することになり、2015年から制作がスタートしました。

保存会が事務局となって、鳥の専門家や民俗の専門家を含めた有識者会議を作り、報告書と映像作品を作ることになりました。その映像作品は2種類あって、坂網猟を伝統文化財として全国に発信するための「普及編」と、ベテランの猟師の技術を若手に継承する「伝承編」です。坂網猟は高齢化で後継者不足になっていて、先輩がいなくなったら、狩猟の方法や猟具づくりの手がかりがなくなってしまいます。「伝承編」はそれを見て勉強できるものになっていて、2時間半くらいの映像です。たとえば、坂網猟具の網の編み方を記録しているので、撮った映像から、自分でも実際に編んでみて、できるのかどうかを検証しました。

  

映画として見せるための編集

ーー「鳥の道を越えても」も「坂網猟」もいわゆる記録映画という範疇かもしれませんが、エンタテイメント的な要素がありますね。

 民映研でやってきたある種の方法論があって、その型に当てはめれば、それなりの形になります。そういう形で一度編集して試写してみたら、あまり反応が良くなくて。カメラマンとプロデューサーも「鳥の道」からのスタッフなんですが、彼らからも厳しい批判を受けました。「今井が作りたいものは何なの? もっとそれを表に出していいんだよ」と。実は僕の中では、今回の制作の後に劇場公開の作品を新たに作りたいという思いがあって、自分の気持ちを入れるのは、そっちの作品にとっておこうという魂胆があったんです。だけど、「そういう割り切った作り方はダメだ」ということを言われたんだと思うんです。そこで自分の気持ちをぶつけたものを作ったら、やっと認めていただいて。有識者の方々にもGOサインをもらって完成しました。 

ーー具体的にはどういうところを直していったんですか?

  素材は同じですが、編集が違います。「坂網猟」は疑問を一つ一つ解決しながら進んでいく、謎解きサスペンスのような要素があるのですが、ひとつの疑問が生まれたときにすぐに答えを出してしまうと、分かりやすいだけで見ている人は面白くない。自分で編集すると、つい独りよがりになってしまうんです。「観る人の立場になって興味を換気する編集方法をするように」と注意されました。「映画作品にするなら、何かしら最後までひっぱるストーリーが必要だよ」ということを言われたんだと思います。シーンで答えが出なくても、それが布石になって、後半になってわかることもあるだろうし。そういった構成面で随分鍛えられましたね。

 「鳥の道を越えて」の場合は、ナレーションの「僕」だけが「分かった」ような話になっていると散々注意されました。取材現場に立ち会ったスタッフもお客さんの立場になって観て、「分からない」ということを指摘してくれました。そこで何度も編集しまして。どうまとめたらいいのかわからず悶々としていたところ、先輩から「おじいさんが指差した先が最初は見えなかった孫が最後には“見える”って言い切れるようになるまでのストーリーというのは素敵じゃないか」と言われて。「あ、それだ!」と。それからはスムーズに編集が展開していきました。

ーー作り方の型はあるけれど、映画作品にするなら、何かしら最後までひっぱるストーリーが必要だということですね

 劇場でかけるということは、お客さんはお金を払って観にくるわけで、それで満足させられなかったら、劇場にも迷惑をかけてしまいます。そういった映画全体の構成という面では、劇場公開を意識することで随分鍛えられましたね。

 こう編集したらこう見られるんじゃないかという意図は、作り手にはあります。しかし、実際は意図しないところでも多分に反応がありました。上映に立ち会ってみると、いろんな反応が得られるんです。自分が意図したところはことごとく反応していないんですよ(笑)。逆に全然意図しなかったところで「そのときこう思った」というような感想をもらうこともある。自分の感覚が全てではないということがよく分かりました。観ている人は画面を観ているんだけど、無意識に様々なことを同時に考えているんですね。そういうところを刺激するようなストーリー展開にするのが理想ですし、心がけています。 

α7Sでこれまで撮れなかった映像を撮る

ーー「坂網猟」の映像は大画面で見ると、カモが飛び立つ映像、そしてそれが放り投げた網で捉えられる映像は迫力がありました。

 「坂網猟」の撮影は2015年から始まり、すでに4Kビデオが出ていたので、全編4Kで撮りたいとパナソニックのDVX200を導入して撮り始めました。

カモは日没後の30分間くらいに池から飛び立つんですが、自然環境では同じ条件というのはまずないんです。しかもあたりは暗闇になってしまいますし。そこでα7Sに単玉の明るいレンズをつけてやっとあのシーンを撮ることができました。

ーーあれは相当暗いんですか? 映像では夕方でまだ陽の光はあるような感じでしたが。

 現場は真っ暗ですよ。肉眼では見えません。でもα7Sで撮ると肉眼以上に明るくなるんですよ。最初は明るくして撮ったんですけど、カメラマンに明るすぎじゃないかと言われて。現実的な暗さにしたほうがいいということで、編集時に明るさを落としました。あのカメラがなかったら撮れなかったですね。

ーーあの映像は興奮する映像でした。観客は思わず声を出していましたからね。

 そうですね。カモが向こうから画面の方へ向かって飛んできて、網を上に放り投げるわけですが、観客はみなさん、網を投げた瞬間、思わず顔を上げますね(笑)。条件反射なんだと思います。これは大画面で見る醍醐味なのかもしれません。

ーーGo Proやドローンも使っていますか?

 グリーンイメージ国際環境映像祭で上映されたNHKの番組(『けもの道 京都いのちの森 The Hunter of Kyoto』)もそうですが、狩猟を取り上げたもので、GoProを使ったり、ドローンを使ったりというのは共通していましたね。狩猟の取材というのは、山の中に入ってしまうと全体像が見えなくなるんですよ。周囲しか見えませんから。また猟師じゃないと入り込めない世界もあります。GoProのような目線の広角映像や、ドローンでの俯瞰映像によって、表現の幅が広がったと思いました。

 空撮は、ラジコンヘリとドローンを使いました。ヘリだと上空から平野部全体を見渡すのには良いけど、ドローンだともう少し低いところを飛ばせて、立体感、印象が違うので使い分けました。タイムラプスもこういった自然環境を扱う映像ではもう必須で、池の上の雲の動きや、一年の季節の移り変わりをタイムラプスで撮影しています。

ーー機材類はどうされていますか?

 会社として最低限の機材は揃えています。カメラマンに依頼するときは、その機材を渡して使ってもらうんですが、基本的には自分でも回せる手頃なカメラ機材を使っています。また作品ごとに、どの機材にするかは考えています。今はGH5を基本にレンズは標準ズーム(オリンパスの12-100mm)、単玉、モニター、ガンマイク、ワイヤレスですね。

このセットで、「夜明け前」という作品は全部撮りました。今日持ってきたのもそのセットです。

「夜明け前」はある程度、画作りも必要だったし、コンパクトで機動力も欲しかったので、GH5にしました。しかし、カメラマンが扱うにはいいのですが、僕が監督兼任で回す場合、ちょっと操作が追いつかないんですね。今はこれにプラスして、もう少し素子が小さくていいのでレンズ一体型のビデオカメラを探しています。

ーー編集はどんな環境ですか?

 ウィンドウズのデスクトップでEDIUSです。映像は自宅で自分で完パケを作ります。音はナレーション含めてスタジオで作業します。音は広がりを持たせるために素材の音だけ別に録りにいったりします。それをスタジオでモニターしながら判断してもらって画に敷いてもらうことがあります。

ーー今作っている映画は?

 自分の故郷である岐阜県東白川村を舞台にした、「鳥の道を越えて」に続く第2弾として、ツチノコの記録映画を作っています。実は東白川村は日本で一番ツチノコの目撃例が多くて、それで有名になって、毎年ゴールデンウィークにツチノコ捜索イベントいうのがあるんです。31年前にイベントが始まったのですが、今では村の人口の倍以上の人が集まって捜索する大イベントになっています。

 今、大半の人はツチノコはいないと思っています。でも実際見たという人もいる。いると思う気持ち、いないと思う気持ち、そういった心意伝承にフォーカスしてみたい。いないと思っている現代人でも、いると思う世界を共有し直すことができないだろうか。いないと割り切るより、いると思っている人のほうが心豊かなのかもしれない。かつてはいると思っている人が多かったのに、いないと変わっていく過程を追うことで、人と自然の変化が見えるのではないか。そこをなんとか映像化したいと思っています。

ーー民俗文化と生き物のかかわりというのはいろいろなテーマがありますね

 そうなんです。「鳥の道」をやったことで見えてきた世界があります。まだまだやることがたくさんあります。自然を相手に仕事をしてきた人は、理解ができないもの、不可解なものに遭遇することがあります。かつてなら、「妖怪に出会った」とか、「キツネに騙された」とかいうことで、お互いに了解される世間があったと思うんです。最近でも、「ツチノコを見たよ」という人がいるんです。こっちが「嘘でしょ」と思っていると相手は話してくれません。こちらがどういう気持ちでいるかで相手が話す内容も変わってくるんです。目撃した人は、一様にストーリーがあるんですよ。「あのときな…」から始まって、その一連の話を聞いているとリアリティがすごすぎて、ツチノコはいると思う。それは僕だけじゃなくて、一緒に同行しているカメラマンもそう思ってしまうんです。その場の空気に一体感が生まれて。映像ではその空気感をどう捉えられるのか。そこが悩みどころです。

ーー子供のときに映画監督になりたいと思っていて、今は記録映画、ドキュメンタリーをやっているわけですが、劇映画をやってみたいというお気持ちはありますか?

  劇映画の映画監督になりたいという思いはずっとありましたが、20代の頃にどんどん薄れていきました。それとともに記録映画「鳥の道を越えて」が出来上がるんです。今は今で、まだ劇映画への思いはありますよ。共通するものがあるからです。それはどうしても記録映画では実現できず、劇映画なら実現できるかもと思う時です。ただ、自分が積み重ねたノウハウは記録映画のノウハウなので。劇映画はどうやって映画作っているかまったく分かっていませんから、ハードルは高いと思っています。

 まずは故郷を拠点にして映画を作れるような立場になりたいですね。今は関東に住んでいないと、仕事ができないという事情があって。ただ僕の会社の「本社」は実家に置いていて、それは僕の意思表示です。そのために、まずは作り手として自分の足元をしっかりと固めていかねばと思っています。

ーーツチノコの映画がどうなるのか楽しみです。ぜひ、これまでにいないタイプの映画監督への道を切り開いてください。本日はありがとうございました。