7月13日からポレポレ東中野で公開される2つの映画がある。『東京干潟』と『蟹の惑星』。2作とも村上浩康さんが撮影、編集、監督、製作を務めている。

東京湾にはかつて広大な干潟が拡がっていたという。しかし近代から始まる埋め立てや開発により、干潟の90%以上が消えていった。現在残っているのが多摩川の河口の東京側に残る干潟。『東京干潟』は多摩川の河口でシジミを獲るホームレスの老人の目からみた干潟の世界を描く。彼は捨てられた十数匹の猫とともに、干潟の小屋で10年以上暮らしている。80代半ばと思えない強靭な肉体を持つ老人は、シジミを売ったわずかな金で猫のエサと日々の糧を得ている。

また、その干潟は、狭い範囲に多くの種類のカニが生息する貴重な自然の宝庫でもある。もう1本の『蟹の惑星』はここで15年にわたって独自に蟹の観察を続けている吉田唯義さんにスポットを当てる。その研究内容も興味深いが、見たことのない蟹のクローズアップ映像には息を飲む。

この2作について、公開前の6月下旬、村上浩康監督にインタビューした。(一柳)

『東京干潟』『蟹の惑星』の公式サイト

 

怪獣世代の映画マニア

ーー実は村上監督にはビデオサロンの2007年の7月号から2009年5月号まで「今月のフライヤー」という連載を担当していただいていました。そのプロフィール欄には「キネマ旬報の映画検定1級を首席で通過した根っからの映画おたくでもある」と書かれています。このインタビューは、監督が映像を志したところから話をうかがっているのですが、その映画おたくがどうして今、ドキュメンタリー映画の監督になっているのかを振り返っていただけますか?

小学生の頃から映画が大好きだったんです。僕は昭和41年生まれで、まさに怪獣世代。小学生の頃には「ジョーズ」とか動物パニックものの映画が流行って、動物も好きだったので、そんなきっかけで映画を熱心に見るようになりました。仙台の大学に入ってから、映画を作るサークルに入りまして、当時は8ミリフィルムで4年間自主映画を作っていました。大学のときはほぼそれだけをやっていたという感じでしたね。

ただ、そこから映画の世界に入りこもうということはなかったんです。いざ就職というときがバブルの絶頂期でしたが、日本映画はどん底の時代で、映画界に入ったとしても10年以上フリーで助監督やって、やっと監督になれるかなれないか。簡単に映画も撮れない時代でした。だから最初から諦めていました。当時、撮った作品はぴあフィルムフェスティバルに出していましたけど、見事落選を続けていました。

そういうこともあって、普通に働いて、映画は趣味として見ていこうと。ただ、映画を見るなら、仙台にいるよりは東京に行かないとと思って東京のとある印刷会社に就職しました。

ところがその印刷会社が今で言うブラック企業でとにかく毎日が辛かったんです。営業になったけど、向いてなくて。毎日、通勤のときに線路に飛び込みたくなるくらい追い込まれていました。こんなに仕事ってつらいのか、だったら自分の好きなことに近いことを仕事にしようと、求人誌を探していたら、短編映画を作っている会社がありまして、そこに入りました。

ただ、入ってみるとそこは映画を作っているのではなくて、バブルのころだったので、企業PR映像主体で、企業紹介とか研修用ビデオを作っていたんです。結果的にはディレクターに昇格して10年いたんですけど、自分が志していた映画の世界とも違う。劇映画を撮りたいと思っていたのに、だんだんそういう世界ともかけ離れていく。映画を作る志がなくなっていきました。

やめるきっかけになったのが、群馬県の地質的な調査で恐竜の化石とか洞窟、鍾乳洞、記録映画の仕事があって、それはわりと自由に撮れたのが面白くて、自分としてはやりきった感がありました。それでなんのあてもなくフリーのディレクターになりました。

そんなときにカメラマンの能勢広さんと出会いまして。能勢さんは神奈川県の中津川でドキュメンタリー、後に「流れ ながれ」という映画になる作品を撮っていました。能勢さんからディレクターをやってほしいと頼まれたんです。僕も興味があって、もともと動物も好きだったので引き受けました。2001年から撮影を始めて、結果的に10年追いかけることになりました。その映画は2012年にポレポレ東中野で公開しました。

「流れ ながれ」は神奈川県の中津川で生き物の保護と研究に取り組む二人のおじいさんの姿と、植物や水生昆虫の生態、そして徐々に明らかになる環境の変化を追い続けたドキュメンタリー映画。第53回科学技術映像祭文部科学大臣賞、文部科学省特別設定 第65回映像技術賞、2012年キネマ旬報ベストテン文化映画部門第4位。

ーーそのときは能勢さんが撮影で、村上さんが監督。その間、仕事はどうされていたんですか?

制作会社から紹介してもらって、NHKの外郭団体で、放送番組ではなくて、記録映画や、博物館上映用の自然や、歴史モノ、美術モノのビデオのディレクターをやっていました。そこを生業として、かたわらで映画を作っていました。

 

シジミ獲りのおじいさんの人生に迫る

  ーー今回の映画は自分でカメラを回そうと思ったのはどうしてですか?

この映画は一人じゃないと撮れなかったと思うんです。というのは、まず前提として『東京干潟』に出てくるシジミを獲るおじいさんと1対1の関係を作るということが重要で、1対1で付き合ったから、あそこまで話をしてくれたと思っています。これがカメラマン一人連れていくと、2対1になります。そうするパワーバランスが変わり、相手も構え方が変わります。コミュニケーションの延長で撮影していくとなると、一人でしか撮れなかったですね。

ーーカメラは?

パナソニックのAG-AC90という、それほど大きくない半業務機で、あまり相手に圧力を与えないもの。干潟を歩き回ることも考えると、軽いカメラが良かった。それから三脚につけて撮るとカメラは機関銃のような感じになりますから、相手に圧迫感を与えないで、ふっと手持ちで構えて撮れるものを選びました。

僕自身が機械に強くないということもありますが、今のデジタルカメラの軽量さ、マイクの良さに助けられています。オートで撮ってもちゃんと撮れますから。そういうこともあって今回は一人で撮ろうと思いました。

 

ーーたしかに二人いると、一気に「取材」感が出ますよね。

一人で撮っていると逆に話しかけられることが多い。何撮ってるの?と。今回の二本の映画も、僕のほうから先に撮らせてくださいとお二人に声をかけたんじゃなくて、向こうから声をかけてきたんです。僕は多摩川の河口の干潟で撮ろうと場所だけ先に決めて、現場に行って、とりあえず蟹を撮りはじめたんです。そうしたら蟹の研究をお一人でされている吉田さん(『蟹の惑星』の主要登場人物)から声をかけられたんです。その翌日には、河原に住んでシジミを獲っているおじいさんから声をかけられました。だからこの映画が生まれたのは、そういう出会いの運からですね。

ーー撮影は2015年くらいからですか?

今年の初めくらいまで撮影していましたから、足掛け4年ですね。

ーー最初からどれくらいの期間撮りたいという計画はあったんですか? 映画になりそうだなと思ったのはどういうタイミングですか?

最初は1本の映画にしようと思っていました。東京の多摩川の河口にある干潟を舞台に、蟹とシジミのおじいさん、地元のボランティアの話など、干潟をめぐるオムニバス映画風のものを考えていました。干潟を撮ろうとしたところから、オリンピックにむけて橋がかかるかもしれないということを聞いて、橋がかかることによってどういう影響が出るかということも含めて、橋がかかるまで撮り続けようと思っていました。ところが撮影するうちにシジミを獲るおじいさんの人生の話が面白くなってきたんです。これはこちらでまとめるしかないなと。

一方で、蟹のほうも、撮れば撮るほど蟹の生態が面白くて。これは一つの映画にするのは難しいから、それぞれ1本の映画にしようと、途中の段階で決めました。

そうすると早く作品にしたくなります。オリンピックまで撮ると考えていたのですが、「東京干潟」のほうは、何度か台風のタイミングでも撮らせてもらって、これは帰結になるなというシーンが撮れて、これで完成しようと思いました。「蟹」のほうも同様ですね。予定より1年早いけど、オリンピック前の変わりゆく東京も見えてくるので、オリンピック前に公開する意義はあると思って公開を決めました。

ーーどれくらいの頻度で干潟に撮影に出向いているんですか?

平均すると1週間に2、3度でしょうか。干潟の一番いいときは夏の始めなのですがその頃は暇な時期であればほぼ毎日でしょうか。1年間で100日間として、400から500日くらいは通っています。もっとも、丸一日いるわけではありませんが。

ーー取材期間は4年間ありましたが、『東京干潟』などは時間軸どおりですか?

基本的にはそうですね。

ーーシジミのおじいさんの人生が途中から徐々に明らかになっていくことで、映画に引き込まれていくわけですが、撮影を始めたときは、村上監督自身も知らなかったわけですよね。

はい。最初は干潟をめぐるオムニバス映画という構想でしたから、あのおじいさんには、干潟でシジミが獲れなくなってきたということと、河原に猫を捨てに来るという問題。その2つの点で話を聞いていました。何回も撮影に行き、僕も差し入れを持っていくので、撮影の後、一緒に飲んだりしていたら、ときどき自分の話を端々にするんです。ただ、そこであまり深く聞くと警戒されるので、少しずつ聞いていきました。大体おじいさんの過去は見えてきたけど、まだそこは撮影していなかったんです。

映画の後半で羽田のお祭りがあったのですが、そのときにガード下で段ボールをしいてお酒を飲んだんです。そのときに「今まで干潟のドキュメンタリーとしてお話を聞いてきたんだけど、“あなた”のドキュメンタリーを撮りたいんです。今まで聞いた話を改めてインタビューさせてもらえませんか?」と言ったら、お酒飲んでいることもあったと思いますが、ああ、いいよ、いいよ、なんでも話してやるよ、ということになって、そこからインタビューが始まりました。

 

同じ話をなんども聞くインタビューの方法

ーーインタビューで心がけたことはありますか?

まずは相手の話したいことを話してもらうということですね。だから映画にはほとんど関係ない話が実はかなりあります。沖縄の話もすごくありました。米軍基地で見聞きしたこととか。人は自分のことよりも、見聞きした話のほうを話すんですね。それを聞いた上で、その時何をしていたんですか? どうだったんですか? と少しずつパーソナルなところに踏み込んでいきました。

ーーそれはカメラを回しながら?

そうです。だから膨大な分量があります。あとは同じ話を何度も聞くことが重要ですね。同じ話でも、もう一度聞くと違う観点が出てきて、むこうは、お年寄りなんで同じ話を何度もするのはあまり苦じゃない、むしろ得意というか。それは一度聞きましたとは絶対言わないで、初めて聞くようような感じで聞いていると、いろいろ話してくれるんですね。真剣に聞いているということは相手に伝わるので。

ーー多くの視聴者は制作者がなんども同じ話を聞いているとは思っていないですね。

これはドキュメンタリーの一つのテクニックなんですよね。

ーー村上さんは映画マニアとしてもすごい方なのですが、ドキュメンタリーも相当見て研究したんですか?

ドキュメンタリーを撮っていながら申し訳ないんですど、95%は劇映画を見ています。実は「ドキュメンタリー」を撮っているというよりも、「映画」を撮っている感覚のほうが強いんです。現実の世界、人様の人生をお借りしているけど「映画」を撮っているんだと。

僕の映画の作り方として、まず場所から入るんです。干潟という場所が東京にもあるということに惹かれてここで撮ろうと思ったのですが、そこに魅力があると然るべき人が現れるんですね、不思議なことに。誰も見向きしもしない場所でも、深掘りして撮っていくといろいろなものが見えてくる。この人間のいる社会、問題だらけだと思うんですよ。そこにぶちあたる。だから干潟という舞台で映画を撮っているという感覚です。

ーー劇映画のように見えたのが、ホームレス仲間のおばさんがシジミのおじいさんのところに来て、会話するシーン。あそこはとてもいいシーンで、あの方はまさか役者さんじゃないですよね?

あのおばさんもいいですよね。不思議なのは最近、劇映画はドキュメンタリーふうに撮りたがるんですよ、逆にドキュメンタリーは劇映画風に撮りたがる。僕も劇映画のつもりであそこは編集しました。あのシーンはもっとずっと長かったんです。おばさんが詩を読むシーンまであって、最初は映画の中に入れていたのですが、インパクトが強すぎて、あのシーンではおばさんのほうが主人公になってしまう。それでちょっと抑えました。

ーーあのシーンは二人が役者のように見えました。それ以外では村上監督がじかに話を聞くというパターンが多いですね。

いろんな人から監督がしゃべりすぎだと言われました。自分としてはあえて積極的に入れたんです。おじいさんと僕のやりとりもドキュメンタリーなんだ、このコミュニケーションの延長線に作品があると。

自分の声を入れる場合に、相手の気持ちを代弁しないということは考えました。事実については言いますけど。それからナレーションも使っていません。劇映画にはナレーションはほぼありませんから。テレビのようなナレーションを聞くと、語り手はその人のことを直接知らないのに、一体何の権利があって、その人の状況や気持ちを代弁するんだろうと思うことがしばしばです。もし必要なら現場での自分の声で入れようと。だからあくまで合いの手であって代弁とかまとめとかではありません。

自分はおじいさんを撮っているけど、おじいさんの本当の気持ちは分からないんですよね。映像は一面的ですが、見る人は声や環境から推し量れるところがある。そういうところで、見る人の想像力にかけたいというところがあります。撮っている本人も思い込みがあったり、わからないところはありますから、見る人の解釈を聞きたいですね。それが映画を公開する醍醐味であり、ドキュメンタリーにはその余地がたくさんあると思います。

 

編集しながら足りない映像があったら撮影に行く

ーー編集はどの段階からどう進めていったのですか?

撮影4年間のうち、2年半をすぎてから編集を始めました。蟹の素材だけで何百時間もあったので早く着手しないと大変なことになると思って。それからは、『東京干潟』と『蟹の惑星』の両方を行き来しながら一方で行き詰まると、もう一方の映画に着手するといった感じで、撮影も二刀流で、編集も二刀流でした。

編集して足りない映像があったり、もう少し聞きたいということころがあると、撮影に行くわけです。この言葉がほしいとなったら、撮りに行けばいい。何回も聞いているので、どこから聞けばいいのか僕には分かります。だから何回も話を聞くのは重要なんです。

そうやって聞きたい話を後から撮影できたことで映画が深まっていったと思います。だから、撮ったものの中から作ったわけではなくて、まだ素材が足りなくて、撮れる状況で、編集していったのが良かったと思っています。

ーー撮影は本職じゃないとはいえ、美しく印象的な映像が多かったです。そういう意味でディレクターが撮った映画とは思えないです。難しそうなマクロ撮影もありますし。

蟹の脱皮は何十匹も撮っています。あれはあれで大変でした。撮影は基本的に現場の自然環境の中で撮っています。幼体のアップだけは川の中で撮れないので、ビーカーをその場において、ライトを当てて、その場で撮りました。持って帰ったら死んでしまうので、その場で撮るしかないんですね。さらに幼体だけは接写したい。AC90とプロクサー(クローズアップレンズ)だと寄りきれない。本当は顕微鏡撮影もしたかったのですが、それはさすがに難しいので、そのシーンだけ4Kカメラを借りてきてプロクサーをつけて撮影して、編集でギリギリ荒れない程度に拡大しました。僕は撮影のプロでないので、自分のなかでできる範囲です。

 

どう撮ったら「映画」になるのか

ーーでも、これは多くの人に映画館のスクリーンで大画面で見てもらいたいのですが、蟹の映像は本当に驚きの連続ですし、干潟の風景の映像も感動的でした。

画作りには自信がありました。学生時代に8ミリで撮っているときから、撮影はすごくいいって言われて、撮影だけ頼まれることがあって。映画が好きで、子供の時から『未知との遭遇』とか『2001年宇宙の旅』のリバイバルを見て、映像の撮り方に興味をもっていましたから。そのころ、映画というのを、内容よりも画面のアングルとか画作りだけで見るようになって、20歳過ぎてまでそんな見方をしていましたね。

ーー撮影監督になってもおかしくなかったですね。

でも、ぼくは不器用で機械いじりが苦手なんで。

ーーなんとなくわかります(笑)。このカメラを選んでいるということはディレクター志向でカメラマンではないですよね。

パソコンもほんとはきらいなんです。カメラマンに自分の好きな映像を撮ってもらえばいいやと思っていたので、カメラマンになりたいとは思わなかった。でも、自分で撮るときは画作りはとても気にしているし、いろんな映画を見ているので、どこから撮ればいいのか、刷り込まれています。ドキュメンタリーはそこが重要だと思うんです。どう撮ったら「映画」になるのか。その反射神経というのは身につきました。『流れ ながれ』を10年やって、能勢さんというカメラマンを見ていると天性のものがあるんです。いい画を撮るというよりも、決定的な画を撮るんですよ。たとえば人物が動くとフォローするじゃないですか? ところがみだりにフォローしない。いろんなところに気を配っていて、人物がフレームアウトしてもそもまま。カラ絵を撮っていると、そうしたらそこに別の人が入ってきて別の展開が起きたりします。ドキュメンタリーの映画ってこういうものなんだとそこで勉強させてもらいました。

自分で撮影するときは、先ほどインタビューの時に相手の話を真剣に聞くと言いましたけど、聞いてない時もあるんですよ(笑)。次はどう撮ろうかなと。ドキュメンタリーは視覚・聴覚合わせて全神経を集中して現場にいるわけで、後ろから来ていることも感じているわけです。撮り逃したらもう1回というわけにはいかない。ただ長く撮っていると、撮り逃しても、もう一度起こりそうな時は分かります。そういう時は自分で働きかけて、そのシーンがもう一度起きるようにします。そういった演出というか働きかけはありますね。だからドキュメンタリーというのは長く撮れば撮るほど、精度は上がっていくものなんです。

ーー台風のシーンが撮れて映画が完結するというお話がありましたが、台風のシーンはどうしても入れたかった?

その前の年に台風で浸水して、そのときに猫が大騒ぎしたのをおじいさんがなだめたという話を聞いていたのですが、そのときは撮れなくて。不謹慎ですけど、今年台風になったら撮らせてくださいとお願いしていました。撮影したときは浸水はしなかったけど、台風の翌日に小屋のすぐ近くまで水が押し寄せているのを見たときに、あの水が、いろんなものを象徴しているように感じられたんです。シジミが獲れなくなっているとか、買い叩かれているとか、じぶんの老いとか。パニックのシーンを見せなくても映画としては完結できるなと。

 

現場音をベースに効果音を足す

ーー台風の翌日のシーンで祭囃子の音がかぶさってきます。あの日がたまたま祭りだったんですか? それともあれは効果音?

あれは迷いました。最後をどうするのか。途中で羽田の祭りのシーンが出てきます。それから、おじいさんが自転車に乗ってシジミを売りに行くシーンでも街の中から祭囃子が聞こえてきます。この映画は、人生をネガティブに受け止めるんじゃなくて祝祭にしたかった。だから祝祭的に終わらせたいと思いました。祭囃子は実は羽田の祭りではなくて効果音なんです。当て込んでみるとしっくりきました。セイヤセイヤという声がおじいさんの内心の声に聞こえてきて。

ーー他のシーンでは、鳥の声もかなり明瞭に入っています。

干潟で聞こえる虫の声、鳥の声は実は後から加えています。本当はあんなに騒がしくはないんです。もちろん、その季節にそこで聞こえる鳥や虫の声であることは間違いではないんですが、それを集めてきて、一緒くたに画面の中に入れました。とにかく干潟を体感してほしかった。

音は整音の方が、1日干潟に来て、その場の音を録りました。でもそれはその季節のものしかない。それをベースにいろんな効果音を加えています。たとえばおじいさんが干潟を歩くときの音や羽ばたきの音とか、ビデオカメラのガンマイクでは入らないので、劇映画に効果音をつけるように足しています。ほぼ全カット、音をつけている感じですね。

僕は映画にとって音はかなり重要だと思っています。音は映像に映っていないものを表現できます。たとえば蟹の鳴き声はないので、鳥に代弁させているところがあります。脱皮のシーンなんかはヨシキリの声とときにシンクロさせたり、交尾のシーンは現場の工事の時の音とシンクロさせたりとか、細かく周到にやってます。もちろん、それは気づかれなくてもよくて、自然に感じてもらえればいいんです。

このインタビューは制作側の話ということで、普段は話さない舞台裏を明らかにしていますが、作り手目線としては、ぜひそういうところも見てもらえればと思います。

音がいい映画はいい映画であることが多いんですよね。キアロスタミとか侯孝賢とか、ジャック・タチとか、音に気を使っていますよね。最近では、ネットフリックスの「ROMA ローマ」は1970年代のメキシコの家政婦を描いた映画ですが、生活の音をものすごく気を使って表現していて、シネコンで体験して大感動したのですが、後で自宅でネットで見たらイマイチだったんですね。映画というのは映画館で音も含めて体験するものであって、その音の作り込みは重要だなとあらためて思いました。

 

世の中にある映画的なもの

ーーインタビューさせていただいている段階ではまだ劇場公開は始まっていませんが、試写で大画面で自作を見て思うことはありますか?

実は今も編集をやり直しています。大画面で見ると、これはいらないなとか、逆に気がつくことがあります。カットを一部差し替えたりして、より精度が高いものを見ていただきたいと思っています。自分でいうのもなんですが、見れば見る程面白い、発見がある作品になっていますので。

ーー機会があれば劇映画を撮りたいですか?

ずっといつかは劇映画を撮りたいと思っていましたが、ドキュメンタリーをやってみると、自分はドキュメンタリーに向いているなと思えるようになりました。物語を作ったり、キャラクターを生み出すということに自分の適正はないと思うし、あまり興味がない。それよりも世の中にある映画的なものを見つけて、それを紡いでいって映画にするのに適正があるし、興味があります。ただ、自分が興味があることにみんなが興味があるわけではないので、興行面で苦労するんですけどね(笑)。今回も蟹の映画? 誰がみるの? と言われて。ポレポレ東中野さんに快くセットで上映していただけるのはありがたいですね。

ーー試写を拝見して、2本とも傑作だと思いますし、個人的にも大好きな映画です。こんな蟹の映像、見たことないです。メカメカしい蟹の周りの体表を水が覆って循環してるのをみると、なんて生き物って不思議なんだろうと思います。

不思議です。海を背負って陸に出ているようなものですよね。

ーーそれから、このお二人の主人公の生き方も興味深いです。今、老後に2000万円足りなくなるということがニュースになっていますが、みんな老後に変な不安を感じています。

この映画にはいろいろな要素があるのですが、そういう観点もありますね。このお二人は対照的な老後かもしれないけど、お二人とも自分を使い切っているというのが共通しています。肉体的にも、頭脳的にも、感覚的にも自分を使い切って生きている。お二人に教えられたことはそういうことですね。僕はこんな不安定な仕事をしていますが、自分を使いきるまでは死ねないなと。人間、生まれてきたからには自分を使い切ることが、義務ではなく、権利だと思う。お二人を見てきてそれを感じています。

『東京干潟』『蟹の惑星』の公式サイト