リーベックブランドでビデオユーザーにはおなじみの平和精機工業は今年で創業68年を迎える。昨年秋に3代目の社長、山口宏一氏が就任した。2代目社長、山口実氏は会長に。その世代交替のタイミングで、リーベックの歴史とこれからについてお二人にお話をうかがった。創業者は会長の父であり、社長の祖父に当たる(ちなみに社長は会長の甥に当たる)。
山口実会長(左)と山口宏一社長(右)。
ーー平和精機工業のスタートは?
山口実会長 1951年ですね。父親が創業者なのですが、東京の荒川区の小さな町工場で写真用の三脚を作り始めたんです。自社ブランドではなく、下請けというかたちでした。そのころは会社組織じゃなくて、個人でやっていました。その後、支援する方々がいらっしゃって、1955年に東京都北区の豊島というところ、隅田川沿いに平和精機工業株式会社として設立されました。当時は工場と自宅が一緒で、ほとんどが工場で働く職人さんでした。田舎から集団就職するような時代で、そんな人たちと一緒に生活しながら私も育ちました。
ーー10年以上前でしょうか、工場取材させていただいたときに、創業者の山口勲さん(当時は会長)がグリースを塗っているところを見せていただきましたが、根っからの技術者というか職人気質の方ですね。現在の場所(埼玉県八潮市)に社屋を立てたのは?
実会長 1972年ですね。私が入社したのが1975年です。私も父親譲りで手先は器用なところがあるので、職人と一緒に切削加工をしたりしていましたが、主な仕事としては工場の外注先を回ったり、生産の計画を立てたりということでした。それは上から言われてということではなく、そういう仕事をする人がいなかったので、会社をうまく回していくには誰かがその仕事を担っていく必要がありました。
宏一社長 当時、オイルショックと変動為替レートの影響で会社は大変な状況になっていたそうです。会長は職人気質の創業者を支え、会社を立て直すために入ったと聞いています。
実会長 入社して3年で会社経営の仕事を任されて、1978年に専務取締役になりました。専務という肩書きですが、ほぼ会社を仕切ってやってきました。
その後、1986年くらいですが、私が入ったときとは比べ物にならないくらいに経営状態が厳しくなりました。その原因は円高です。1980年代には急速に円高が進みました。もうひとつは台湾が日本の製品を真似して三脚を作り始めて、その追い上げが厳しくなってきました。
会社が生き延びていくには、価格競争ではない高付加価値で勝負するしかない。ビデオ専用の三脚にシフトしていこうと判断しました。
ーーそこからが我々が知るリーベックになっていくわけですね。当時は国産用のビデオ三脚といえば、ダイワでしょうか?
実会長 ダイワさんはそれこそ御社でいうと「小型映画」時代からムービー用三脚をやっていましたから、早かったですね。
ーーリーベックというネーミングはいつからですか?
実会長 1989年に本格的にプロビデオ用三脚のLibec 50が出るのですが、これがLibec (リーベック)シリーズの始まりです。それまではブランドはHEIWAでしたが、やがてはLibecをブランドにしようと思っていましたから、それも想定してロゴを作りまして、それが現在まで引き継がれています。最初はラインナップが揃っていなかったので、「HEIWAから誕生したLibecシリーズ」と謳っていました。1995年には正式にブランドにしました。
宏一社長 Libec 50は会社を救ったモデルですね。
実会長 それよりも前にこれからはビデオの時代ということで、1987年くらいから大型のビデオカメラ用の三脚を開発していたんです。
ーー実会長は社長を30年近く続けてこられたわけですね。
実会長 三脚だけを作っていても業務を拡大するのは無理なので、領域を三脚から、カメラサポートイクイップメント、つまり映像撮影現場を支える機材をいろいろ出していこうと、ペデスタル、ジブアーム、トラッキングレール、モーターで動くREMO30といったラインナップに進出しました。
ーーそれが現在まで続いていますね。宏一社長が入社されたのは?
宏一社長 2014年です。その前は、モーターの会社の営業をやっていました。入社3年で海外駐在の道筋ができたタイミングだったのですが、突然当社から声をかけられました。
ーー将来は平和精機工業に入ろうというお気持ちはあったんですか?
宏一社長 まったくなかったんです。会長と会社の話をしたこともなかったし、そもそもよく知りませんでした。
若い頃の自分の目標はアメリカ駐在を経て、アメリカの大学院に入って勉強して、国際機関に勤めることでした。自分がやりたいことはあったのですが、その一方で、お声がかかったということは戦力としてみなされていることで、とても光栄なことです。それに創業者である祖父には大変お世話になっていました。その祖父が築きあげた会社ですから、その山口家のルーツのところで貢献できるというのは、給与以上の満足感、使命があると思いました。ただ、入社したときは将来は社長ということは全く考えていませんでした。そのときに海外営業が足りず、私は海外に留学していたこともあって、そういうところでは貢献できるのかなと転職を決意しました。
実会長 私が入社したときとは時代が違います。当時は長男が会社を手伝うのは当たり前という感覚の時代でした。私が入社すると、若大将が入ってきたという受け取られ方ですが、宏一社長の場合はそうではありません。
私が入社した頃は、作れば売れるという時代がまだ続いていました。ところが今はまったく違います。これだけ厳しい時代は、ものづくりはもちろん大事だけれど、営業とかマーケティングが重要です。新しい視点を期待しています。
一方でファミリービジネスという側面もあります。戦後、父親が苦労して作った会社を、私は継続させていくことに必死でした。ただ、この会社はお金儲けだけでやってきたわけでありません。宏一社長にはその志も汲んでくれていると思っています。
宏一社長 3代目が自分の色を出して失敗する例は多いようです。この会社も創業から68年続いてきました。この会社の良いところがあるから続いてきたわけで、それを完全に把握した上で、自分の色をつけるのは、5年後、10年後でもいいと思っています。
大変ありがたいことに会社としては組織的にも財政的にも安定している状態です。このバランスを崩さないように謙虚にやっていきたいと思います。3代目の社長は創業者、2代目とも役割は違うと思っています。自分の役割をしっかり見据えながら、創業100周年に向け日々挑戦していく決意です。
実会長 実は創業者は1920年の2月5日に生まれまして、今日が99歳の誕生日なんです(取材日は2019年2月5日)。今は自宅では過ごせないので、介護してくれる施設にいるんですけど、今日は会社の歴史についてインタビューを受けてきたという話をしようと思っています。
ーー偶然にもメモリアルな日ですね! よろしくお伝えください。本日はお忙しいところありがとうございました。これからも映像制作業界を下支えしてくれるような製品を期待しています。(聞き手:一柳)
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