中・高・大と映画に明け暮れた日々。あの頃、作り手ではなかった自分がなぜそこまで映画に夢中になれたのか? 作り手になった今、その視点から忘れられないワンシーン・ワンカットの魅力に改めて向き合ってみる。

文●武 正晴

愛知県名古屋市生まれ。明治大学文学部演劇学科卒業後フリーの助監督として、工藤栄一、石井隆、崔洋一、中原俊、井筒和幸、森崎東監督等に師事。『ボーイミーツプサン』にて監督デビュー。最近の作品には『百円の恋』『リングサイド・ストーリー』、『銃』等がある。現在、NETFLIXでオリジナルシリーズ『全裸監督』が公開中。『全裸監督』シーズン2も制作開始。『銃2020』が公開中。ABEMAと東映ビデオの共同制作による『アンダードッグ』は11月17日公開。『ホテルローヤル』は2020年11月13日。

 

第66回 フェリーニのアマルコルド

イラスト●死後くん

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原題: Amarcord
製作年 :1973年
製作国:イタリア
上映時間 :124分
アスペクト比 :ビスタ
監督:フェデリコ・フェリーニ
脚本:フェデリコ・フェリーニ/トニーノ・グエッラ
原案:トニーノ・グエッラ
製作:フランコ・クリスタ
撮影 :ジュゼッペ・ロトゥンノ
編集 :ルッジェーロ・マストロヤンニ
音楽 :ニーノ・ロータ
出演 :ブルーノ・ザニン/マガリ・ノエル/プペラ・マッジオ/アルマンド・ブランチャ/チッチョ・イングラシアほか

フェデリコ・フェリーニが自身の故郷であるイタリア北部の港町リミニを舞台に制作した半自伝的作品。幼少期の実体験を盛り込み、家族や町の個性的な人々とふれあう思春期の春夏秋冬の1年間を描く。本作は47回アカデミー賞外国語映画賞を受賞。

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7月31日より、恵比寿ガーデンシネマで、フェリーニ生誕百年を記念して特集上映が始まるとのことだ。4Kデジタル・リマスター版にて『道』や『青春群像』『カビリアの夜』『甘い生活』『8 1/2(はちかにぶんのいち)』など9本が上映される。ラインナップの中に『アマルコルド』が含まれていたのがうれしかった。

フェリーニの映画を最初に見たのは中学生の時でNHK教育の「世界名作劇場」のテレビ放映だ。『道』は僕の母親が人生で1番好きな映画だと言っていたので、気になって見てみた。

ジェルソミーナ、ザンパノ、キ印…アンソニー・クイン、ジュリエッタ・マシーナ、リチャード・ペイスハート。中学で習った英単語はすっかり思い出せないが、この3人の名前はしっかりと刻まれた。ラストシーンのザンパノの咆哮が今もせつなく蘇る。

東京に出て来て1年目の僕が20歳を迎えた年、まだ渋谷でやっていた東京国際映画祭でフェリーニ全作品の上映がプログラミングされていた。フェリーニ監督は来日しなかったが、僕は連日パルコ劇場に通い詰めた。

『崖』には字幕がついていなかったが、最後まで見た記憶がある。初見の『カビリアの夜』に『道』同様の感銘を受け『そして船は行く』ではフェリーニの映画術に魅せられた。20歳のときにフェリーニ作品に出逢えたことは得難い体験となった。『アマルコルド』もこの時見ている。

 

フェリーニの思春期 イタリア・リミニの歳時記

アマルコルドとはフェリーニが生まれた北部イタリアの漁港町リミニの言葉で「私は覚えてる」という意味の言葉らしい。邦題で「フェリーニのアマルコルド」と付いているくらいで、フェリーニの思春期、1930年代リミニの春夏秋冬を描いた映像の歳時記だ。

春一番が吹いたリミニの街で春の奇祭が行われている。この祭りに本作品の登場人物が次から次へと登場してくる。もちろんフェリーニがモデルになっている少年チッタが主人公で、その家族が中心となるのだが、チッタは狂言回し的な役割で、画面に登場する街の人々すべてにフェリーニ監督の眼差しと、愛情が注がれ1人1人が映画の中で生き、愛しい。

学校の癖のある教師たち、タバコ屋の巨乳の大女、街を彷徨う浮浪者。娼婦の狂女は、『8 1/2』にも登場する浜辺のサラギーナと重なり、神々しい。盲目のアコーディオン弾きが街で奏でるニーノ・ロータのメロディは映画音楽の劇版は名曲1曲さえあれば、それで充分なことを証明してくれる。

 

この映画にはフェリーニの 好きなものが詰め込まれている

この映画にはフェリーニの好きなものが詰め込まれている。フェリーニは自著「映画を語る」の中で、好きなものは駅、マティス、空港、リゾット、樫の木、ロッシーニ、薔薇の花、マルクス兄弟、虎、相手が来ないことを願いながら約束の場所で待っていること、自転車のサドルに乗っている女性のお尻…と語っている。

少年チッタと悪ガキたちが駅前の広場で女性が自転車に乗るお尻を見ているシーンでフェリーニは女性たちのお尻を恥ずかしげもなく撮っているのがうれしかった。

夏になり、豪華客船レックス号を町をあげての小型船団で観にいく場面があまりにも美しく息を呑んだ。フェリーニの魔術が炸裂する。僕は劇場で船上の街の人々と同様に熱いものが込み上げてしまった。映画のすごさ、素晴らしさを教えてもらった瞬間だった。

「人の記憶の再構築」という映画の再現力は無限であることをこのシーンで知った。フェリーニのビニールの海は『そして船が行く』でも見事に炸裂している。観て欲しい。

秋になりチッタの家族は、精神病院に入院していた色情魔の叔父さんを迎えに行く。治ったと思った叔父さんが、帰路の休憩中、木の上によじ登って「女が欲しい!」と叫びまくる場面が哀しくも可笑しく、切なく、美しいのだ。家族の説得にも応ぜず、精神病院の奇妙な医師や、看護婦たちの前で素直に木から降りてくる叔父さん役の俳優が(俳優なのか?)すごい。病院に連れ戻される叔父さんを見送る家族の馬車が行く田舎道の薄暮の撮影が素晴らしい。

 

その後の映画にも伝承されるフェリーニの映画術

撮影はもちろんイタリアの名匠ジュゼッペ・ロトゥンノ。フェリーニの撮影隊は冬の場面もたちまちに作り上げてしまう。雪が降り出す場面が素晴らしく、様々な監督たちが後年影響を受けたのではないか。

僕はテオ・アンゲロプロス作品もこよなく愛する。アンゲロプロス作品の『霧の中の風景』にもあまりにも美しい雪の降り出す場面があるのだが、『アマルコルド』の場面と類似している。珍しい大雪にはしゃぐチッタと悪友たちは憧れの年上の女性グラデスカと雪合戦に興じる。好きな女の子に雪をぶつけた日のことを僕自身も思い出してしまう好きな場面だった。大雪の後、チッタは母親を病気で失う。葬儀のシーンに町中の人々が登場してくる。『ニュー・シネマ・パラダイス』の葬列の場面と重なってくる。フェリーニの映画術は見事に伝承されている。冒頭の祭りのシーンとのコントラストに胸が熱くなる。

 

記憶の再構築が 映画の道具になりえる

春になり、また春一番が吹く頃、町のマドンナ、少年チッタの憧れのグラデスカの結婚式で町中の人々が集まる。盲目のアコーディオン弾きもいる。映画が終焉に近づいていることを予感させる。映画のラストはニーノ・ロータの映画音楽で締めるのが当然だ。大切な女性を2人失ったこの年を、フェリー二は「私は覚えてる」と53歳の年に発表している。今の僕も同じ歳だ。偉大なる魔術師の影すら踏むことができない。

そんな僕も「私は覚えている」という少年時代の映画を撮ってみたいのだ。人の生きた証である記憶の再構築、映画がその道具になりえることをフェリーニは僕たちに教唆してくれる。31日、撮影をうまく無事終わらせることができたら、劇場に駆け込めるかもしれないなと呟いてみた。

 

 

VIDEOSALON 2020年9月号より転載