ドキュメンタリー撮影問答 井賀孝×辻智彦〜写真と動画


 

写真右:井賀 孝 (いが たかし)……1970年、和歌山生まれ。写真家。ブラジリアン柔術黒帯。高校時代はボクシングに熱中し、近畿大会2位となる。大学卒業後、独学で写真を始める。27歳のときニューヨークで出会ったブラジリアン柔術がきっかけで、闘いながら写真も撮る。2008年から、より根源的なものに魅せられて山に登り始める。現在は山伏修行をしながら、格闘家やスポーツ選手、ミュージシャンなどの撮影をする。著書に『ブラジリアン バーリトゥード』(情報センター出版局)、『山をはしる—1200日間山伏の旅』(亜紀書房)、『不二之山』(亜紀書房)、『バーリトゥード 格闘大国ブラジル写真紀行』(竹書房)などがある。

 

写真左:辻智彦つじともひこ……1970年和歌山県生まれ株式会社ハイクロス シネマトグラフィ代表日本大学芸術学部映画学科監督コース卒業後フリーランスキャメラマンとしてノンフィクション』『世界車窓から』『ETV特集くのドキュメンタリーを撮影2004年映画17歳風景撮影担当後実録連合赤軍劇映画撮影がける

 

…今回問答する相手は写真家の井賀孝さんです。実は彼とは高校の同級生で友人でもあったから、“いがっち”と呼ばせてもらいますが、東京に出てきてから10年くらい会ってなかったんです。ふとした折に再会したら、写真家になっていて驚いて。なんで驚いたかというと、いがっちは高校時代はボクシングをやってたんですよ。それも県大会どころか近畿大会で準優勝するくらいの本格派。とにかく喧嘩が強い男で、写真とかアートからは一番遠いタイプだと思っていた。

そんな彼が写真家になっているという。ただ、彼が撮っている写真を見ると、高校時代に僕が知っていた井賀孝と割と一直線に繋がっているなと思うようになりました。

ドキュメンタリー撮影問答では、写真家とも話をしてみたいということがあったので、ふだん、いがっちとは写真と映像の表現についてほとんど話すことはないんだけど、今回はぜひ写真家、井賀孝と問答してみたいと思いました。

実はこの問答の1回目で山崎裕さんと写真と映像の違いってなんなんだろうという話をしたのですが、写真家とも真正面からそういう話をしてみたら面白いのではないかと。

まずは、いがっちがどうしてボクシングから写真家を目指すようになったかというあたりから聞かせてほしいんだけど。

井賀…ボクシングは好きで人生をかけてやってたけど、プロになりたいかっていうと家庭の事情もあってそこまでの根性はなかったね。大学受験で1年浪人して予備校にも行かず自分で図書館行って勉強してるだけだったから、いくつか受けてまた落ちたの。そしたら父親がアメリカの大学の日本校みたいなのを探してきて、結局そこに入った。ただボクシングにも未練はあったし、20代前半までは自分探しで悶々としていたわけ。あれだけ好きだったボクシングに代わるものはないかと。

一応本は好きだったから、ジャーナリストとかには漠然と興味があった。25年以上前でしょ。SNSもない時代だから自分が何か発信しようとしたら新聞社か出版社に入るかしかないかと思ってた。論文講座みたいなのに出てみると、俺が書くのはいつも面白いって評価されるのに、こういう内容だと就職試験に受からないよって言われたの。たとえば朝日に入りたいなら、その論調にあったように書けっていうわけ。ジャーナリストってもっと自由だと思ってたのに、そうなのかと。今なら分かるけど、窮屈でつまんなく思った時に、フォトジャーナリストならカメラ一台もってその場に行って、写真が良ければ採用されるわけで、肩書とか年齢とか関係ないと思って、それで急に写真に興味を持ち始めた。それまでまったく写真撮ったこともなかったけど、独学で勉強しているうちに、面白くなってきたんだよね。

…ボクシングに代わるものが見つかったと。それはいくつの時?

井賀…24歳くらいかな。

…一般的な写真家のルートがあるのかどうかわからないけど、誰かの助手についたりということはしたの?

井賀…ほぼ独学。周りに写真をやる仲間もいなかったし。でも20代のころに写真集はめちゃくちゃ見た。日本人、外国人問わず。写真だっていろんなジャンルがあるし、押さえておかなきゃいけない古典みたいなのものもある。それは見ているうちに分かってくるけどね。

 

写真家としての自分探し

…好きでやっていくうちに、トントン拍子に名前が売れてきたって感じ?

井賀…そんなことは全然ない。最初は肉体労働のバイトをしながら、近所とか友人とか、肉体労働の現場の人を撮ってたんだけど、だんだん面白くなくなってくるわけよ。食えないし、こんなことをやっていても突破口が見えない。今度は写真家としての自分探しが始まるわけ。

…つまり、写真家として自分は何を撮るべきなのかと。

井賀…プロとしてやっていくことしか考えてないから。そもそもカメラをいじったり、写真が趣味ということではなくて、いかにして自分が撮ったものを世に発表するか、発表できる場に立てるようになるか、にしか賭けていない。自分がいいと思うものを撮って、見せて伝えたい。そもそもがジャーナリズムの意識があるから、マスターベーションでいいと思ってない。写真とは撮って、見せて、なんぼだから。

…撮るモチベーションとかテーマは自分の中から出すわけだよね。

井賀…そうそう、根本にはそれがある。でもそれが見つからない。煮詰まってきたときに、青山ブックセンターでやっていたカルチャースクールに行ってみたの。こういうキャラだから面白がられるじゃん。そのうち講師の一人が、「井賀はあれだよね、ニューヨークとか行っちゃったらいいんじゃない」とか適当なこと言うわけ(笑)。今思えばなんの意味もなく言ってると思うんだけど。でも、こっちは悶々としてる時代だし。肉体労働して貯めたお金で一年後にニューヨークに行ったの。

ニューヨークで最初はバシャバシャ、シャッター切れるんだけど、結局1カ月もしたらまた写真撮れなくなっちゃった。ニューヨークには世界中から人が集まっていて、自意識過剰なやつなんかいっくらでもいるわけよ。生まれも育ちもアメリカじゃない俺がここで何ができるのか。こんなの撮ったからって突破できるわけない。もう打ちひしがれて、首からカメラ下げて路上に座り込んでた。そしたら、俺の前に立った黒人がビラ配ってたの。それを見たら“ブラジリアン柔術”って書いてあって、俺、格闘技好きだから、それ聞いたことある、知ってるぞと。どうせ撮るものないし、やることもないから、翌日行ってみた。それがブラジリアン柔術との出会いだね。ニューヨークで撮影したものを、日本で現像してプリントしたものでブックを作って雑誌社に持ち込んだわけ。当時は雑誌とかがやっぱり力あるからさ。ロッキンオンみたいな音楽雑誌とか。そのうちミュージシャンを撮るようになって。TITLEっていう雑誌で、南北テコンドー入門記っていうのを写真と文章で6ページのレポートを書いたり、山の中の特殊部隊養成所に体験するレポートをやったり。ブラジルに行きたいって言ったら、50万円出すから好きに撮ってこいと言われて。ブラジルに行って撮りだして吹っ切れた。そこで俺の写真家としての自分探しは終わったの。

…それはつまり、自分にしか撮れない写真の世界を発見したと。

井賀…そう、そういうこと。ブラジルっていうのは今でこそ誰でも行ってるけど、当時は世界的にみても写真集はほとんどない。まだブラジリアン柔術っていうのは世に出て数年の話だから、メディアにもほとんど出てない。なんで俺しか撮れない。

…写真家それぞれ、道は全然違うし、自分の写真の発見の仕方も様々だと思うんだけど、共通してるところでいうと、己とはなにか、己の肉体を通して撮れるものはなにかっていうことを写真家は追求してると思う。

いわゆる動画、ドキュメンタリー映像の作り手で、そんなルートをたどってる人っていないよ。映像作家といわれる人は、ほんとの個人映像を除くと、カメラマンや編集者が別にいるよね。監督がそこまでの強度を持って映像そのものと向き合うかっていうとそうではない。それよりも映像に含まれる時間、空間、音を含めて構成していって世界観を作るっていうのが、ドキュメンタリー映像を作るっていうことなのかなと、思った。

井賀…ただ、このブラジリアン柔術の本にしても、最初から自分で文章書いてる。写真のセレクトもページネーションも全部やってるわけで、自分ではプチ映画だなと思ってるわけ。写真家というのは自然にひとりで何役もやっているのかもしれない。

 

ブラジリアン柔術の本 「ブラジリアン バーリトゥード」(2002年)のこと。井賀孝氏がブラジルに滞在して、主にブラジリアン柔術の格闘家との邂逅を写真と文を綴ったデビュー作。情報センター出版局から刊行された。

 

 

 

カメラマンの肉体のあり方

…でもやっぱり写真が主に感じるね。写真って撮る人間の肉体性が現れる。カメラマンの撮ってる姿とかも肉体の鋭さ、撮ってる時のスピード感とかも、自分の身体能力と写真ってのが一致してる。こういうドキュメント写真て瞬間を切りとっていくじゃない?  その時の瞬間瞬間にぱぱっと動いていくという感じがあると思うんだよね。

僕らがやっている映像は、手持ちで撮ってると肉体を使うんだけど、その肉体のあり方がだいぶ違うなと。自分の肉体をもうちょっとゆったり、広く構えるっていうか。

僕がドキュメンタリーのカメラマンになりたいって思ったきっかけが、たむらまさきさん**で、その人のカメラワークとかカメラの表現がすごく好きだったの。たむらさんはどっちかっていうと、すごい運動神経が鈍い感じ。カメラの動きが遅くて、だいたい速いものは絶対追えない。劇映画とかやってても、諏訪敦彦監督の「2/デュオ」ってすごくいい映画があるんだけども、主人公の女の子がぱっとしゃがんだりするとついていけないから、いなくなってから、フラッとカメラが動く。でも相手とのズレとか、遅れていくその時間差の中になんか膨らんでくる時間と空間というのかな、そこに見えてくるものがあった。つまり映像では、自分の肉体と相手とのズレっていうか時間差みたいなのがむしろいいのかなって感じもあって。ただいがっちの写真を映像カメラマンである自分が見ると、相手とシンクロしていく速さに気がつく。いがっちは高校時代、ボクシングやってたのに対し、僕はただ本読んでる文学青年だったわけで、なんかそういうことも関係してんのかな、と思った。

井賀…自分は偶然のようでやっぱり必然的に写真を選び取ってるんだよ、画とか小説とか映画とかいろいろな表現はあるけど。写真が一番肉体というか身体性が必要だと思っていて。

 

**たむらまさき……小川紳介プロダクションの三里塚シリーズでの撮影からスタートし、のちに劇映画でも多くの作品の撮影を手がけた名カメラマン。本名の田村正毅でクレジットされた映画も多い。2018年に他界。

 

 

 

 

動画は「立体」な感じがする

…写真ってなんか、前後の痕跡が想像されるよね。映像だとこっちからこっちに移るときの間とかが全部記録されるわけで。

井賀…写真はとにかく暴力的に切り取るでしょ、パシャっと。いいとか悪いとかじゃなくて、前後とか空白とか関係ない。バサッと切りとっちゃう。

…時間を止めてるだけに、そこに別種の想像を掻き立てる情報量っていうのか、まさに奥行がある。パッと見た時に全部を見渡せる。その見渡す時間っていうのは、写真を見る観客に委ねているわけでしょ。だから、いくらでも見ることができる。

井賀…俺は最近動画もやってるんだけど、動画をやりだして思ったのは、とにかく時間と空間と音だなと。写真とは圧倒的に違う。とにかく「立体」な感じがする。写真は奥行きっていうのは意識してるけど、立体な感じはないよね。立体ということをそんな意識してやってないし。だから当たり前だけど、それだけ情報量が多い。

…別の側面から言うと、映像はどうしても受け身になって、ただ目に入っているものを感じとるしかない。写真は見る時も能動的というか。ただ、それは絵とは違う見方だよね。

写真が面白いのは偶然性が入ってるじゃん。写っているものは写真家の眼なんだけれども、その写真家の眼とその瞬間に、写真家がいた場所で起きたこと、写真家自身も分かっていなかったことみたいなものも写ってるわけでしょ。そのミックスっていうこと。

井賀…そうそう。絵は画家がすべてコントロールして一人で最後まで描きあげている。写真は、たとえば人物がブレてるのは分かってるけど、どうブレてるかは読めない。だから映像ほどの立体性はないけど、コントロールしきれないものがあって、それが面白い。映像で辻がコントロールしていない空間が面白いと思うのと同じで、写真も人物のブレ具合とか、写り込んでくるものをコントロールできないところが面白い。スナップではその偶然性もありなわけで。つまり、クリエイターっていうのは、映像にしても写真にしてもすべてコントロールしたら面白くないと思っているんじゃない?  偶然性とか余白がないと。

…その話を受けて聞くんだけど、いがっちの写真は基本的には加工しないで、「撮って出し」っていう方法が多いよね。なぜ加工しようと思わないの? 今は動画だってグレーディングでかなりいじることができる。トリミングもできる。

井賀…動画に関して語るだけの経験値がないから分からないけど、写真に関しては明確な答えがある。いじって何かしたいんであれば、「絵を描けや」と思ってるわけ。写真っていうのは、人でも、ブツでも、風景であっても、被写体が必要なものだから。頭の中の念力で印画紙に焼き付ける超能力でもあれば別だけど、被写体があって、それがもう偉いわけだよ。だってこれを撮りたいっていう被写体がないと成り立たないわけだから。撮ったあと大幅に加工するのであれば、最初から自分の描きたい絵を描けって。むしろ小説書けばいいって。そういう感じはある。

 

 

 

 

動画は写真に近づく?

…とはいえ、いがっちが撮れば、「井賀孝」っていう刻印がどうしてもある。自分で加工しないとしたらどこからそれは出てくると思う?

井賀…まず被写体として何を選んで撮るか。その次は、どの道具を選んでいるか。つまりどのカメラを選んでいるかによっても変わってくる。次に、そいつとどう向き合っているか。つまり人間力。そこが動画より写真のほうが暴力的でパーソナルな要因だと思う。

…多分それは一対一で撮ってるからだよね。いがっちが撮ってる題材っていうのは、自分とそのルールを共有しない他者、しかし自分と何かの次元で繋がってる人を選んでいるとは思うんだけど。

井賀…基本的には写真のほうがやっぱり被写体と向き合っている感は強いね。動画はさ、俺のイメージだけど、後ろであり、全体のぽわーんとした空間を撮るって感じがある。

…例えばものすごくパーソナルなものを撮ったときに、写真であれば、みんなの胸を打つ普遍的なものって流通してきたけど、映像ではそれは特殊なものであって、普遍的な訴求力をなかなか持てない。

井賀…これまではそうだったけど、今は動画が撮れるスマホを誰もが持つ時代だから、とんでもなくセンスがあるやつが出てくる可能性はある。インスタとかYou
Tubeから出てくると思う。

…パーソナルに撮れる動画が出てくるということは、どんどん写真に近づいていくね。             

 

(後半はビデオSALON 2019年12月号に掲載)

ビデオSALON2019年11月号より転載