ドキュメンタリー映像にとって「カメラ」とは?

4月20日発売の5月号からスタートした連載、「ドキュメンタリー撮影問答」。ドキュメンタリーカメラマンである辻智彦さんが毎回ゲストを迎えて、あるテーマで問答するシリーズ。その第1回目は、テレビの業界で60年間、テレビドキュメンタリーのカメラマンとして活躍されてきた山崎裕さんです。

WEB版では、本誌では掲載されていない部分を公開しています。また本誌では、ここにない話題が収められています。ぜひお読みください。ビデオサロン5月号は書店もしくはAmazonなどのWEB書店、電子書籍で購読可能です。

ビデオSALON2019年5月号

 

答:山崎裕(やまざきゆたか) 1940年生まれ。日本大学芸術学部卒。三木茂(『戦ふ兵隊』など)に師事。CM、記録映画、テレビドキュメンタリーの撮影で活躍。是枝裕和監督との「ワンダフルライフ」(1999年)以降、劇映画の撮影も積極的に手がける。映画『トルソ』では監督も。2001年より「座・高円寺ドキュメンタリ−フェスティバル」のプログラムディレクター。

問:辻智彦(つじともひこ) 1970年和歌山県生まれ。株式会社ハイクロス シネマトグラフィ代表。日本大学芸術学部映画学科監督コース卒業後、フリーランスキャメラマンとして『ザ・ノンフィクション』『世界の車窓から』『ETV特集』等、多くのドキュメンタリーを撮影。2004年に映画『17歳の風景』撮影を担当後『実録・連合赤軍』等、劇映画の撮影も手がける。

 

ディレクターカメラの問題とは?

 ここ最近、日本映画の公開本数が増えています。中でもドキュメンタリーが多くなり、ある種ブームのようになっています。本数が増えた背景のひとつとして、カメラの小型化によって、ディレクターが簡単に撮りに行けるようになったことがあると思います。ドキュメンタリーにおいてはディレクターが自分でカメラを回すというスタイルが、むしろ一般的になっています。その流れ自体は十年以上前から始まっていました。

さらにここ数年で、映画館がフィルム上映からDCP上映になったことで、最終的に上映までにかかる経費が飛躍的に下がり、それによって参入障壁が下がったことが大きいと思います。ある主張を映像として訴えることが低予算でできるようになったことは、いい面でもありますが、クオリティという点では問題が浮き彫りになってきました。

山崎裕カメラマンはテレビを中心にドキュメンタリーカメラマンとして60年の経歴があり、なおかつ今も現役として現場に出られています。また、10年続いている座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバルのプログラムディレクターとして、応募作品を見続けてきました。その山崎さんが、今回のパンフレットの最後の講評のなかで「ディレクターカメラ」の問題について書かれていました。我々も「f/22」というドキュメンタリーの作り手のための雑誌を2月に創刊したのですが、その中で「キャメラマン不要論」を特集しました。

はからずもそういう問題意識が、ドキュメンタリーの制作現場で共有されていると感じたので、そもそもドキュメンタリー映像においてカメラマンとは何かということを最初のテーマにしたいと思います。これは職能としてのカメラマンを考えるということではなく、そもそもドキュメンタリーにおいて、カメラとは何なのか、撮影とはどういう行為なのか、ということを問答のなかで明らかにしていこうという試みです。

山崎 かなり前に「映画テレビ技術」という業界誌で、付き合いのあったディレクターを対象に、「今、カメラマンについて考える〜テレビ・ドキュメンタリー作家10人との対話〜」という記事を書いたことがありました。そのときにすでにディレクターがカメラを回すという状況があったんです。ただ、その時代は「ディレクターがカメラも務めれば自分が撮りたいものが分かりやすく撮れるはずと思うのだけど、映像というのはそういうものではない」という人が圧倒的に多かった。やはり対象を見るときに、自分とは違う別の目が欲しい。自分の中でも複眼があればいいのですが、なかなかそれを持てる人は多くない。「f/22」の「キャメラマン不要論」で、亀井文夫と三木茂のルーペ論争を取り上げ、その中で、亀井さんは、カメラマンはファインダーの中ばかりに集中してしまって、作品全体が見えていないという指摘をしていました。所謂「カメラマン馬車馬論」ですが、テレビディレクターの今野勉さんは、現場ではそれが逆転することもあると指摘していました。つまり演出家が馬車馬のようになって視野が狭くなり、思い込みで走ってしまい、むしろカメラマンが全体を見ているようなケースがあると。つまりディレクターが、カメラマンが、ということではなく、制作するスタッフとしての複眼が必要だということです。映像を中心に考えた場合、少なくともカメラマンとディレクターの両方が必要ではないかというのが、少なくともあの頃は、一般的な考えだった。

ところが、今回の座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバルの応募作品はディレクター本人がカメラを回して、カメラマンがいない作品が多かった。

 つまり集団制作ではない、個人取材ということですね。

 

是枝さんのディレクターカメラはどこが違っていたのか?

山崎 それは作家性ということではメリットが一方にありながら、大半の作品においては、カメラという道具を何のためにどう使うのかという意識に欠けていると言わざるをえないものが多かった。もちろん、ドキュメンタリーにおいては、ディレクターが自ら回すことを演出における方法論にするという手法はあります。それが成功していれば問題はないのですが、方法論としての選択ではなく、あまり考えもなくカメラを回しているという例が結構多かった。

その対比として、今回の座・高円寺で取り上げた是枝さんの作品が参考になると思います。NONFIX(フジテレビ)の枠で、テレビ放送された「シリーズ憲法〜第9条・戦争放棄『忘却』」です。これは是枝さんがディレクターとしてひとりでカメラを回しているものですが、何故か圧倒的に違うんです。

 どこが違うんですか?

山崎 これはカメラマンに対しても、ディレクターに対しても言えることなのですが、「対象を撮る」ということではなく、「対象を撮ったものを誰にどう伝えるか」、そこに意識があるかどうかなんです。カメラというのは、「撮る道具」ではなく、「撮ったものを人に伝える」道具なんです。そこを勘違いしている。カメラマンでも経験がないカメラマンや、思いが強いカメラマンというのは、「撮る」ということに夢中になる。重要なのは、撮ったものがモニターやスクリーンに映されたときに、それを見る人たちが、そこから何を読み解くのかを意識して撮るということなんです。カメラはそのための道具です。そのことを撮影行為のなかで忘れてきている。

ディレクターカメラになった場合、ディレクターは内容を現場で考えたり、取材対象に対して関係性を作ることを意識します。インタビューもしなければなりません。カメラマンとはまた別の意識と作業が必要になっています。そういう状態でカメラを回すから、片手間になってしまうんですね。

 それはどうしても片手間になりますよね。

山崎 道具としてのカメラが、ディレクターがどこにいって、誰と会って、どんな話を聞いたという証拠、自身の存在証明というか、そのことを記録するだけなんです。それを編集したり、上映して人に見せたときに、撮影の段階で、本当に何を見ようとしたのか、何を伝えようとしたかということが昇華されていない。そう感じたんです。

 ディレクターは話を聞くことがメインになると、カメラはそっぽを向いたりしてしまう。音が録れていればいいだろうという。

山崎 その画でディレクターが聞いていることはわかるのです。その映像が人の心にどう響くのかという意識はまったくない。

カメラマンがインタビューを撮るときには、目線を意識し、カメラポジションやサイズをどうするか考えます。目線を引き受けるのか、外すのか、悩んでいるはずです。つまり、目線とカメラ位置によって伝わるものが変わるからです。そういった映像の基本的なことに気がついていない。自分がとにかく話を聞きたいということだけです。それはマイクをもって聞いているのと同じ。

 カメラがマイクになってしまっているんですね。確かにマイクのような感覚でカメラを振っているディレクターは多いですね。

山崎 そういう作品が結構多いんです。これはちょっとまずいなと思いました。是枝さんが自分で回したNONFIXは、彼が写真をよく撮っていたという経験もあるけど、こういう画を撮ったら、どういうふうに受け止められるかという計算が見えている。ディレクターが一人で取材している行為が表現としての方法になっている。大半の人はそれが方法になってると思えない。

「伝わらないまま」最後まで行ってしまう

 若いカメラマンも同じ失敗をするとおっしゃっていましたが、その時の失敗というのは、ディレクターと若いカメラマンで違いますね。若いカメラマンが表現できていないということは、編集の段階で、ディレクターには分かる。ところがディレクターが回した場合、現場の自分の記憶があるから、あの時の印象はこの映像でちゃんと映っている、見る側にも伝わっていると思ってしまうんです。そしてそれを最後の仕上げの段階まで引っ張ってきてしまうんです。

ディレクターがカメラを回すということは、個人の思いが強く残るというメリットがある反面、「伝わらない」危険性があるというデメリットも生み出す。

山崎 カメラマンを使う、使わないとは関係なく、撮影された現場を知っている人は、その時の状況やどういう出来事の結果これを撮ったのかが分かりますが、見た人にはそれが伝わらないという例は多くあります。

 しかもディレクターが自分で編集するとなると、伝わらないまま、最後まで行ってしまいますね。

ーー体験したり見た記憶を頭から消すことは難しいわけで、作り手はどうしたらいいんでしょうか?

山崎 是枝さんの例を出したように、カメラとは行為の結果を記録するものではないという自覚を持って、撮る段階で「伝える」という意識を持つだけで大分変わります。

 過程を細かく追ってみると、まずは「観察力」が必要です。現場やその人に対して感じたことを分析してみる。どの部分でどう感じたのか、自分のなかで分析する。そして、どういうふうな表現が一番いいのかを考える。そこまでをワンプロセスとして捉える。それがカメラマンとしての仕事、撮影の役割ではないかと思います。

そのときにディレクターカメラだったらどうするか? 観察して、感じることは人並み以上にあると思うんです。その感じたことを、ではどうやって映像として捉えていけばいいのか、そしてそれを人に伝えることができるか、その後半のプロセスが抜けて落ちてしまう危険性がある。

私は若い頃、よく山崎さんに怒られましたけど、撮りながら、「これは凄い、凄いぞ」と思いながら撮っているけど、撮られた映像は全然すごくないというね(笑)。それはカメラマンは誰しも経験すると思うんです。そういうことを繰り返すことによって、感じたことと表現することの差を意識してきたのです。その差を埋めるのが技術であり、それを磨いていくのがカメラマンだったんです。

それは決してカメラのオペレートの上手下手といったことではなくて、人に伝えるという部分をどう捉えるかということだと思います。

山崎 自分が現場に行ったら、行った行為を撮るんじゃなくて、行った時に何を見たのか、ここを自分は見て欲しい、ということを選んで撮ってみる。作品を見ていると、選ばれてないという気がします。本当に行為の結果でしかないんです。

(中略)

インタビューは写真で言えばポートレートである

山崎 たとえばインタビューというのは、その人物の言葉を録ることではなくて、写真でいえば、ポートレートですよ。それは決して証明写真でも盗み撮りでもない。その人物を映像で表現しようとしたときに、その人にどういう魅力があるのか、そういうものをどう表現したいかを考えます。どんな表情でどんなところで話すのかを考えるわけです。映像によって、同じことを言っても、人が感動したり、ちょっとしらけたりということはあるんです。そのことを意識してカメラを使うべきです。

 インタビューなどは、デジタル一眼がでてきてから、構図やライティングを狙いに狙って撮るようなことも増えてきました。それはそれで逆の意味で問題ですね。

山崎 映像の場合は、そのカットだけでは成立しないからです。シャローフォーカスで本人にだけにしかピントがあっていない映像というのが格好いいからというのでは、道具を使いこなせていない。35ミリフルサイズのカメラでドラマを撮ったことがあるのですが、二人の人間が斜めの関係で、会話しているのに、両方顔が見えているのに片一方がボケてるのはどこまで許されるのか、なめが後ろ姿なら構わないけど。また部屋全体のフルショットを撮っているときに、パンフォーカス的に全体にあっていて、そこからポンと一人の女優にアップになったときに、バックが何もわからないくらいに大きくボケてしまいます。そこに違和感があると監督に指摘したことがあります。女優のポートレートを撮ってるわけではない。この部屋の中で、このサイズで、後ろのボケはタンスなのか鏡台なのかが薄っすらとでも分かって同じ部屋だとわかるようにしないと、映像としては成立しないのではと思う。

 

 

ドラマとドキュメンタリー

 ドラマの話が出ましたが、山崎さんはドキュメンタリー出身でドラマを後から撮り始めたわけですが、その2つの現場を経験して、同じところ、違うところはありますか?

山崎 冒頭で話したように、カメラとはその映像の意味を人に伝える道具であり、それを操る係だという、ベースのところは同じだと思っています。ドキュメンタリーはある程度はわかっていても、先行きはわからないという状況のなかで、対象を見つめて撮っていく。ドラマの場合は、脚本でどういった場所でどういった展開をするのかということはわかるけれど、やはりディテールはわからない。役者がどう動き、監督がどう演出するか、それに対して役者がどう反応するか、基本的には分からないんです。その場の状況をどこからどう切り取るか、必要な画はなんなのかを考えるということではスタンスは同じです。

ドキュメンタリーの場合は、その対象のアップを狙う時、そばで撮りたいのか、遠くからなのか、カメラマンが選ぶ。ドラマの場合は、監督とカメラマンで相談して決めるわけですが、ものすごく細かくカット割りをする人の場合は、カット割りの段階で決まります。ただ現場に入ってカット割りをもらったときに、そこは意識するけど、本当にそれでいいのか、自分だったとこう思うということを考えて、監督とコミュニケーションをとります。監督によっては、ドキュメンタリーのようにこちらに任せてくれるときもあるし、任せてくれないときもある。

たとえば是枝監督とやった「誰も知らない」では、前半は三脚、後半は手持ちにしているのですが、これは監督と打ち合わせをした上でやっています。時代劇の「花よりもなお」は、完全なフィクションを撮りたい、全部三脚にして、動きは移動車にして、手持ちは一切やめましょうと是枝監督がリクエストしたので、そうなっています。ところがDVDの特典映像のために是枝監督と対談をしたのですが、そのときに「山崎さん、三脚にのせてもやっぱりドキュメンタリーカメラマンですね」と言われた。「あなたもドキュメンタリー畑から来たからでしょ」と返したんだけど、たしかに自分のドキュメンタリーカメラマンとしての性質に後から気がついたところはあります。

 どういうところですか?

山崎 極端なことを言うと、カメラの置く場所が、芝居の邪魔になるところに入っていないんですよね。だから、カメラが小津映画のようなポジションに入ることがないんです。役者が動くときには、カメラが邪魔になるようなところにはなるべく入ってない。役者が自由に動けるところでベストなところを探しているということに気がつきました。

 感覚的に入れないということですか? それは分かります。

山崎 「花よりもなお」はフィルム撮影ですが、ロケの途中で編集部がつないできたラッシュを撮影所の試写室でみたんです。そうしたら役者の古田新太さんが「なんかこれ、江戸の長屋にテレビの取材班が取材に来たみたいな雰囲気をどうしても感じるんだけど」って言うんですよ。全部三脚につけてるのに、です。群像が動くから邪魔にならない位置にカメラが入っているんです。そこで気がついた。

 おそらく劇映画専門のカメラマンは逆の意識ですよね。カメラが役者の正面に入って、芝居に邪魔になると考えないと思うんです。どちらが正解、どちらがいいということはなくて。

それから、ドキュメンタリーと劇映画の違いが美術だと思います。劇映画では美術を操作できるけれど、ドキュメンタリーではやりません。

山崎 私は劇映画では、撮る前に美術に注文をつけます。そこに生活している雰囲気を出してほしい、とお願いするし、照明はリアルに生活している雰囲気を出してほしい、とお願いします。もっとも今の美術の人は、そういう意識でやっているから、それほど方向性は違わないのですが、現場に入ってみて、違和感を覚えた部分だけ、指摘するくらいです。今までの劇映画では幸いなことに、それほど苦労することはありませんでした。

ただ、「歩いても歩いても」では、ロケセットとセットのシーンがあって、美術も照明もどっちで撮ったかわからないようにしなければならない。ドキュメンタリーでそういう気の使い方はないけど、ドラマでは、照明とか美術をコントロールしなければならないということはありますね。

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