前回、40年前のVTRの話を書いたので、また40年前のネタを。

今、作っている7月号で連載の筆者が1977年の「小型映画」の記事に触れていて、その裏をとらなくてはならなくなった。「小型映画」とはかつて弊社で出していた8ミリ映画の雑誌なのだが、会社にはバックナンバーはない。(ちなみにビデオサロンは編集部の棚に創刊号から揃っているのだが、その創刊号、ある美術展の展示に貸し出したのだが、まだ返ってこないことを思い出した。ドラマの撮影にも美術のセット用に貸し出すことはあるが、こういうのも大抵返ってこない。返してくださいね、 特に創刊号は!)

倉庫には合本があるので、取り寄せてもらった。こういう状態になっている。40年前の雑誌なのに、真空パックされたみたいに中は美品でまったく色褪せていない。

1冊に4号分が収まっている。

中をパラパラと見てみると、いろいろな発見がある。「小型映画」は「ビデオサロン」の前身のように語られることがあるが、正確にいうとそれは違っていて、「小型映画」はその名の通り「映画」作りの雑誌だったのに対して、ビデオサロンはテレビ、ビデオ、映像機器のトレンドを追う雑誌だった。小型映画をみると、映画関係の人たちの寄稿が多いのに驚かされる。

そして、アマチュアの8ミリ映画のコンテストがいかに盛況だったかがうかがえる。

1977年のトピックスというか大特集になっているのは、第10回東京国際アマチュア映画コンクールで、そのグランプリを「北の涯から」という作品で受賞した児島範昭さんが大きく取り上げられている。

映画評論家の双葉十三郎さんも、「やたらうれくなってしまった「北の涯から」」というタイトルで寄稿されている。児島さんは1974年の同コンクールでも「古都のひびき」でグランプリを受賞しているのだが、「審査の時これを見終わってため息をついた人はぼくだけではなかったようである。今回の「北の涯から」もタメ息派が圧倒的多数で」と書かれている。何にどう感動したのかを書き連ねながら、最後に「ぼくはここに8ミリ芸術の一つの極地を見出した」とまとめている。まさに絶賛である。

同じ号で、映画評論家の荻昌弘さんもまた「児島範昭の出現は、日本小型映画史を通じての最大の事象のひとつ」とまで言う。

誌面では、児島さんのインタビュー(無口な方なので、友人も交えた3人に話を聞くというスタイル)で、部屋の中のイラスト図やノウハウの一端も明かされている。

以下、あまりに面白いので、もう公開してしまおう。

自作フィルターの話。映像表現に対する探究心が半端じゃない。

児島さんはその後、ビデオ時代になっても作品を作り続けられ、1990年代後半か2000年頃だったか、母をテーマにした作品を作った。それはビデオサロンでも取り上げたことがある。その頃だったか、一度だけご挨拶したことがある。

実は、そのときは1970年代にグランプリを獲りまくった児島さんの作品群を私は見たことがなかった。

初めて見たのは児島さんが亡くなって追悼記事をビデオサロンに掲載したときだった。いつだったかは正確には思い出せないが、間違いなく2000年代で、そのときに見ても衝撃だった。とにかくカッコよかった。

その映像資料を見せてくれた会社の先輩に、「小型映画時代の傑作選を見せてください」とお願いしてざっと見たのが、大変申し訳ないが、どれも凡庸で詰まらなかった。児島さんが特別だったということがわかっただけだった。

「北の涯から」もいいのだが、私は「下町の詩」が大好きなので、これを貼ってしまうことにする。もしかしたら、どこかから怒られてしまうかもしれないので、早く見てください。

児島さんが今、30-40代だったら、間違いなくブラシレスジンバルも使っていたし、ドローンも操縦していただろうし、RAWかLogで撮ってカラーグレーディングしていたのではないだろうか? 「下町の詩」を見ていると、そういう気がしてくる。そして計算された音のミキシング。今とは比べものにならない不自由な制作環境の中でも音響デザイン的な発想があった。

現役時代の仕事は、NHKで美術の仕事をされていたと聞いたことがあるが、直接映像制作に関わることはなく、作品づくりはあくまでアマチュアというスタンスだったそうだ。